ぶらっと清水【第8回】駿府城のお掘と清水港が直通な件 / Did you know that Sunpu Castle’s moat is directly connected to Shimizu Port?
- 山内 真一

- 2024年12月9日
- 読了時間: 13分
<今日のお散歩まとめ>
徳川家康が駿府に住んだ時期は生涯で3回あり、幼少期には今川義元の人質として、戦国時代後期には駿河を含む五カ国を領有した際、晩年には大御所として駿府に戻り亡くなるまで過ごしました。
家康は駿府を戦略的拠点として考え、町づくりや物流の整備を進め、特に大御所として戻った際には巴川の河口掘削に着手しました。
巴川の河口掘削は当初砂地の崩れやすさから難航しましたが、数年かけて水上地区まで船が通れる水路を完成させ、この水路は駿府城の堀とつながり、物流の大動脈として機能しました。
清水港は駿府の町の経済と物流を支える重要な拠点で、巴川の河口部は東海道や甲斐からの街道、そして太平洋海運が交わる結節点として機能しました。
清水港と駿府城下町は計画的な町づくりによって密接に結ばれ、清水港は「駿府の港」として位置づけられました。
駿府の町は一般的に西は安倍川、東は長谷通りまでが範囲とされていますが、家康の町づくりを考えると清水港もその一部と考えられ、港と町が一体となって機能していました。
清水港が駿府の町づくりにおいて重要な役割を果たしていたことを理解すると、歴史の見方が変わり、当時の地図や物流の仕組みを想像すると新たな発見があります。
【提供】
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。

【ぶらっと清水 第8回】
こんにちは!今日は清水港と駿府の街をつなぐ歴史と文化について、フェルケール博物館をスタート地点にお話ししていきます。案内人は椿原さんです。 清水と徳川家康のつながり
波音ちゃん: 駿府の街といえば、やっぱり徳川家康ですね。彼は清水港を意識していたんでしょうか?
椿原さん: はい、家康が駿府に住んだ時期は三回あります。
幼少期: 今川義元の人質として駿府に住んだ時。
戦国時代後期: 小田原北条氏を滅ぼし、駿河を含む五カ国を領有した時期。
晩年: 江戸時代初期に大御所として駿府に移り住み、亡くなるまで過ごした時期。
波音ちゃん: 晩年だけじゃなく、過去にも駿府に関わりがあったんですね!
巴川と家康の町づくり
椿原さん: 大御所として駿府に来た家康がまず手掛けたのは、巴川の河口掘削でした。ただ、砂地の土地が崩れやすく、当初は工事を中断した記録があります。それでも数年かけて掘削を続け、水上地区まで船が通れる水路を完成させました。
波音ちゃん: 巴川の工事がそんな昔から重要視されていたなんて驚きです!
椿原さん: さらに、その水路は駿府城の堀とつながり、物流のための大動脈として機能していました。城の近くには倉庫が並び、清水港と駿府の城下町を結ぶ水運が計画的に整備されていたんです。
清水港は「駿府の港」
波音ちゃん: 清水港が「駿府の港」だったとは、町のイメージが変わりますね。
椿原さん: 清水港は駿府の経済と物流を支える拠点でした。当時、巴川の河口部は交通の結節点であり、東海道、甲斐から駿府へ続く道、そして太平洋海運が交差する場所でした。
駿府の町の広がり
波音ちゃん: それでは、駿府の町はどこまでがその範囲と考えられていたんですか?
椿原さん: 西は安倍川、東は長谷通りが一般的な市街地の範囲ですが、家康の町づくりを考えると、清水港もその一部だったと考えられます。港と町が一体となって機能していたことがわかりますね。 清水港と駿府の結びつき
波音ちゃん: 清水港が駿府とこんなに深くつながっていると、歴史の見方が変わりますね!
椿原さん: はい、地図を眺めながら当時の道や物流の仕組みを想像してみると面白いですよ。清水港は駿府の町づくりにおいて、非常に重要な役割を果たしていたんです。
波音ちゃん: 今日はありがとうございました!次回も楽しみにしています!
椿原さん: こちらこそ、また清水の魅力をたっぷりお話ししましょう!
【観光案内ガイド風】
ようこそ!清水へ!
こんにちは!今日は清水港と駿府の町に隠された徳川家康との深いつながりをご紹介します。このエリアには、日本の歴史と物流の重要なポイントが詰まっています。それでは早速お話を始めましょう。 清水と徳川家康のつながり
家康が駿府に住んだ時期は、生涯で3回ありました。
幼少期: 今川義元の人質として駿府に住んでいた時期。
戦国時代後期: 小田原北条氏を滅ぼし、駿河を含む五カ国を領有した時期。
晩年: 大御所として駿府に戻り、亡くなるまで過ごした時期。
これらの時期を通じて、家康は駿府を戦略的な拠点として考え、町づくりや物流の整備を進めました。 巴川と家康の町づくり
家康が大御所として駿府に戻った際、最初に着手したのが巴川の河口掘削です。
当初は砂地の崩れやすさから工事が難航しましたが、数年かけて水上地区まで船が通れる水路を完成させました。
この水路は駿府城の堀とつながり、物流の大動脈として機能。城の近くには倉庫が並び、清水港と駿府を結ぶ水運の拠点となりました。
清水港は「駿府の港」
清水港は単なる港ではなく、駿府の町の経済と物流を支える重要な拠点でした。
巴川の河口部は東海道や甲斐からの街道、そして太平洋海運が交わる結節点。
清水港と駿府城下町は、計画的な町づくりによって密接に結ばれていました。
駿府の町の広がり
駿府の町は一般的に西は安倍川、東は長谷通りまでが範囲とされています。しかし、家康の町づくりを考えると、清水港もその一部だったと言えます。港と町が一体となって機能していたことが、当時の地図や物流の仕組みからも伺えます。
清水港と駿府の結びつき
清水港が駿府の町づくりにおいて重要な役割を果たしていたことを知ると、歴史の見方が変わります。地図を眺めながら、当時の道や水路の仕組みを想像してみると、新たな発見があるかもしれません。
Welcome to Shimizu!
Hello! Today, let’s dive into the deep connection between Shimizu Port and Sunpu Town, guided by the legacy of Tokugawa Ieyasu. This area is rich with historical and logistical significance. Let’s get started!
The Link Between Shimizu and Tokugawa Ieyasu
Ieyasu lived in Sunpu three times during his life:
Childhood: As a hostage under Imagawa Yoshimoto.
Late Sengoku Period: After defeating the Hojo clan, he ruled five provinces, including Suruga.
Later Years: As a retired shogun (Ogosho), he returned to Sunpu and spent his final years there.
Through these periods, Ieyasu developed Sunpu as a strategic hub, prioritizing its infrastructure and logistics.
Tomoe River and Town Planning
One of Ieyasu’s first projects upon returning to Sunpu was the excavation of the Tomoe River estuary.
Despite challenges due to sandy soil, the project created a navigable waterway to the Mizukami area, connecting the port to inland regions.
This waterway linked directly to the Sunpu Castle moat, supporting a robust logistics system with warehouses lining the route.
Shimizu Port as "Sunpu's Port"
Shimizu Port was not just a local harbor; it was the lifeline of Sunpu’s economy.
The Tomoe River estuary served as a hub connecting major roads like the Tokaido, Koshukaido, and maritime routes.
The port was intricately connected to the town’s development, emphasizing its strategic importance.
The Extent of Sunpu Town
While traditionally considered to span from Abe River in the west to Hase Street in the east, Ieyasu’s planning suggests a broader scope, incorporating Shimizu Port as an integral part of Sunpu.
The Connection Between Shimizu Port and Sunpu
Understanding Shimizu Port as part of Sunpu’s infrastructure changes the perspective on its history. Exploring maps and imagining the water routes and logistics of the era reveals the sophisticated planning behind Ieyasu’s vision.
Thank you for joining this journey through history!
【放送内容のテキスト文面】
おっはの~ん。
清水港擬人化キャラクター七海波音です。
第一回 ぶらっと清水、始まります。
清水のいろんな場所をぶらっと歩きながら、素敵な魅力を発見して、お伝えしていきます。
この番組は、
清水をみんなで盛り上げたい、
するが企画観光局、
魅力ある清水をつくる会、
鈴与グループ、
清水港振興の提供でお送りいたします。
さあ、今日のお散歩のスタートはフェルケール博物館からスタートです。
前回に引き続き、フェルケール博物館の椿原さんとぷらっとお散歩していきます。
椿原さん、駿府の街といえば、徳川家康さんですよね。
家康さんって、清水のこととか意識してたんですか。
はい、徳川家康が駿府、静岡に住んでいた時期ってのは三つありますよね。
まずは、今川義元の当時は人質って言いますけど、言ってましたけども、幼少時代に駿府に住んでいたときですね。
それから今川家、それから豊田家だけが滅んで、徳川家康が5カ国を領有した時期ですよね。天正の10年から19年までですか、18年、19年ですですね。
小田原の北条家を滅ぼして、家康に駿河を含めて5カ国を領有させた時期ですね。
その時期が1回、それから慶長の12年ですね、江戸時代の初めに大御所となって、亡くなるまで、駿府に住んでいた時期ですね。
そっかあ、終の棲家にするまでも前に、2回住んでいたんですね。
はい、その最後の時期ですね、大御所となって、駿府に来たときなんですが、慶長12年ですよね、来て早々ですよ。
まず何を始めたかというと、駿府のまち作りを始めたんですけども、その文献を見ていくと、まず最初に駿府のまち作りの一つだったんでしょうね。
巴川の河口部を掘り始めたっていうふうに載ってます。
これちゃんと幕府の記録に載ってるんですけども、当時、1日にして訴追をやめるっていうふうに出てました。
なぜかというと、今でもそうなんですけども、巴川の周囲っていうのは、砂とか土ですよね。
意外ともろい土地だったものですから、掘っていったときに、壁がどんどん崩れてきてしまったものですから、最初は諦めたっていうふうになってますね。
十男の頼宣、後に和歌山のね、藩主になってくる人なんですけども、その人とともに慶長18年までほ、何回かに分けて掘っていった。
まさかの家康さんが初めにやったことが、我らが巴川の工事。
巴川って、そんな昔から大事な川だったんですね。
はい、今のですね、水落っていう、水落じゃない水上ですか、水の上に上げるっていう地名ありますね。バイパスのインターでも水上インターってありますよね。そこまで掘っていって船通りができたっていうことが文献にちゃんと載ってます。
だから、今の水上までは、巴川の河口部をずっとさかのぼって、船が行ってたっていうことです。もちろん、大きなね、海を渡るような船ではなくて、ちゃんと水船に乗って載せ替えて、荷物を持って遡上をしてたっていうことですよね。
そこに何があるかっていうと、水上まで、いま、皆さん頭の中に地図を思い出していただくと、北街道が水上まで来てますよね。
北街道を水上から逆に、今度南の方にずっと追っていきますと、ちょうど5キロで、水落の交差点のあたりに行きますよね。
そうすると、そのところは駿府城の水路にあたります。
地図をまた見ていくと、その水路、堀に当たって、その堀から水路がカクカクカクっていうふうに入って、水路と水路を繋いでいって、本丸の堀までずっと入れるように作ってあります。
で、かつ、その本丸まで入る水路の周囲には、江戸時代の駿府城の地図見るとわかるんですけども、蔵がいっぱい並んでるんですよね。
それ見るとやっぱり、はい、水路を使って、清水の港と繋いで、水運で物流を考えていたんだなっていうのが予想されます。
ちゃんと家康は、最初からね、駿府に来るときから、それを考えていたんだろうなっていうのが予想されます。
ただし、他の話もまた出ますけども、これって今言った道ってのは、駿府城の絡めてって言って、裏口に通じますよね。
ですので通常はその道っては、水路ってあんまり使わせなかったようですね。
何かの災害があって、今、記録に残ってるのでは地震があって、石垣が壊れちゃったとかね、そういうときには、また石を運ぶために、そこの水を使ったりとかっていうことをやってるんです。通常やっぱり使わせなかったみたいですね。
はい、江戸時代の終わりくらい、天保ぐらいかな。
1840年くらいの文献によると、東海道を使った牛車による運搬、それから今言った、北街道と水上から水路を使った運搬、比較した物流の記録があります。
それを見ると、9対1でした。
はい、牛車、東海道を使った運搬が9、それに対して、水上までの水路を使った運搬ですね、それが1でした。
それでも文献を見ていくと、家康は水路を使った物流、駿府の町、駿府のお城と、清水の港を繋ぐっていうことを意識して、巴川の掘削を始めてますのでね。
そういう意味では、今はね、清水港っていうと、清水の港っていう意識が強いんですけども清水の港っていうのは、駿府の町の港として考えられていた・・・っていうのはよく意識されるんじゃないでしょうかね。
清水港は、独立した清水ではなく、寸法の、徳川の港だったんですね。
まちの範囲のイメージがめちゃくちゃ変わりますね。
はい、それから、前回のときに話しましたけども、江尻港、それから江尻城のことよく話したかな、江尻城のことをお話しましたけども、武田信玄は江尻城を駿府の首都として考えていたってこと話しましたけども、その、なぜ江尻城を駿府の首都として考えていたかっていうと、はい、東海道の宿の宿駅、宿場が江尻城のすぐ近くのにあったっていうこと、それから、太平洋海運の清水港が、江尻それから清水にあったっていうこと、それから甲斐の国から駿河の国へ到達する、今で言ったら52号線、それから中部横断道、それが甲斐から駿府までずっと伸びていた、その三つの結節点が巴川の河口部に当たっていたっていうことですよね。
ですから、巴川の河口部を目がけて、いろんなものが通じていたってことですね。
皆さんもし地図があったらね、見てください。
今の東海道線は、巴川の河口部までずっと、あの東側から来ると、そこからカクっと、今のだからJRの清水駅ですよね、あそこのところでカクっと方向を変えて、まっすぐに、静岡の駅に向かって、また静岡の駅を過ぎると、海側に向かっていくっていう昔の直線道路をなるべく考えて道ってのは作られてるんですよね。
はい、東海道の53次もそうですよね。
巴川の河口部をめがけて道作りってのがされてます。
皆さんにすごく意識されてたと思いますね。
確かに地図で見ると、いろんな道が交わりますね。
今だからこそ、衛星写真でわかりやすいですけど、昔にここまで地理を把握して、まちづくりや道を作っていたって、すごいです。
はい、だからそういうことを考えると、前回のときに話しましたけども、駿府の浅間神社に、水運とか海を使った商いをする人たちが、お礼とかを願いを込めて、船、手水鉢を奉納するっていうのは、皆さんそういうのをちゃんと意識していたんじゃないかなっていうふうに僕は考えてます。
ですから、皆さんでもう1回ね、あのラジオだとわかりにくいとか言いにくいところもあるんですけどね、地図見てもらえると面白いですよ。
ちょっと長くなっちゃいましたけども、お願いします。
そういえば、椿原さん、今、私の中で、清水港が駿府の港っていうことで、ものすごくイメージが変わったんですけど、駿府のまちって、結局どこからどこまでが、まちの範囲だったって考えられそうですか。
はい、まず普通に考えると、駿府のまちっていうのは、言葉悪いんですけども、西側を考えると、通常、安倍川を境にしてますよね。
安倍川の西側、どういうかっていうとでも言うことあんのかな、もうあんま言わないのかな、川向こうなんてひどいことを言うときありますよね。
ですから、おそらくは現在も昔も、その言い方を名残とすると、駿府の町は安倍川まで、安倍川を境にしているっていうのが西側だと思います。
東側どこかっていうと通常は駿府の市街地というと、長谷通りまで長谷通りのところまでが市街地。
駿府だっていうふうに考えると思います。
ですけども、僕は、家康とかの勢力範囲って言いますかね、それとか駿府城のまちづくりっていうのを考えると、もっと広い範囲で考えてます。
それから、そう考えると清水の港、清水港はどこにあったかといいますと、巴川の西側にありますよね。
河口部よりも、ですからその家康の勢力範囲とか駿府のまちづくりの範囲に含まれるんじゃないかなっていうふうに考えてます。
はい、ありがとうございました。
あっという間にお時間が来ましたので、楽しいお話もここまで。
来週もまたお楽しみにです。
この番組は、
清水をみんなで盛り上げたい、
するが企画観光局、
魅力ある清水をつくる会、
鈴与グループ、
清水港振興の提供でお送りいたしました。





