top of page
魅力ある清水を創る会
みのわ神社001.png

ぶらっと清水【第23回】フェルケール博物館を探検!(5)/ Exploring the Verkehr Museum: A Journey into the History of Shimizu Port(5)

  • 執筆者の写真: 山内 真一
    山内 真一
  • 3 日前
  • 読了時間: 16分




<今日のお散歩まとめ>


  • フェルケール博物館の缶詰記念館を中心に館内を案内

  • 昭和5年にアメリカへ輸出された初の缶詰ラベルのレプリカが展示(本物は博物館に保管)

  • 「富士丸」ブランドは静岡県の練習船「藤丸」に由来し、静岡県が主導した缶詰事業の始まり

  • 当時の缶詰は安価で美味しく、海外でも高評価を受けたことから清水食品株式会社が設立され輸出が本格化

  • その後、米国との貿易摩擦や世界恐慌の影響で一時的に困難に

  • 戦後に再び輸出が復活し、日本の缶詰は世界中に広まった

  • 展示には手書きの年表や資料が用いられ、レトロな雰囲気を大切に演出

  • プリンゼや焼き鳥缶など、昭和期から近代までの缶詰も展示され、CMの記憶とともに親しまれる

  • 館外には「最低賃金全国第1号記念碑」があり、昭和31年に静岡の缶詰業界が自主的に最低賃金を設定

  • この取り組みが昭和35年の最低賃金法の成立につながった

  • 清水が港町として培った相互扶助の精神が、保険や労働保障などの社会制度にも影響を与えてきた

  • 博物館は物流だけでなく、社会課題への地域の取り組みを伝える貴重な場

  • 来週からは興津の清見寺を訪ねる予定


  • Tour of the Verkehr Museum focused on the Canned Food Memorial Hall

  • Display of a replica of Japan’s first export label for canned food to the U.S. in 1930 (original kept in archives)

  • "Fujimaru" brand named after a Shizuoka training ship, marking the start of government-led canning projects

  • The canned food was affordable and tasty, leading to international success and the founding of Shimizu Foods Co., Ltd.

  • Trade friction with the U.S. and the Great Depression posed challenges soon after

  • Post-WWII, Japanese canned goods regained popularity and are now common worldwide

  • Handwritten displays and retro designs preserve the historical ambiance

  • Items like Purinze and yakitori cans evoke nostalgia, especially through old commercials

  • Outside the museum stands a monument commemorating Japan’s first minimum wage agreement in 1956

  • This agreement became the basis for Japan's Minimum Wage Law passed in 1960

  • Shimizu's port-town culture of mutual aid influenced the creation of insurance and social protections

  • The museum not only covers logistics but also highlights local efforts in addressing social issues

  • Next week, the journey continues to Seikenji Temple in Okitsu


【提供】



【ぶらっと清水 第23回】


ぶらっとフェルケール博物館!(5)

波音ちゃん「さあ今週もフェルケール博物館を ぶらっと 歩きましょう!前回は缶詰の歴史やラベルのお話を伺いました。今回も缶詰記念館と、その周辺の見どころを教えてください。椿原さん、よろしくお願いします!」


椿原さん「はい、では入口に戻りましょう。ここに小さなラベルがあるの、見えますか?“対米輸出向け・最初のラベル(複製)” と書いてあります。昭和5年、アメリカへの第一便に貼られた本物のラベルを複写したものです。現物は光に弱いので、館の収蔵庫に大切に保管しています。残っているのはわずか2枚だけなんですよ。」


波音ちゃん「昭和初期のレトロ感がたまりません! しかもここでしか見られないなんて貴重ですね。」


椿原さん「しかもマグロだけでなく、三本線が入ったカツオの缶詰ラベルも一緒に残っていました。ブランド名は “富士丸”。静岡県の練習船“藤丸”から名を取ったんです。県が主導して開発した缶詰事業が、ここからスタートしたわけですね。」


波音ちゃん「開発翌年にはもうアメリカへ! 海外でも安くておいしいと評判だったんですね。」


椿原さん「ところが2年ほどで米国との貿易摩擦が起きます。当時は世界恐慌直後。日本は外貨が欲しいし、アメリカは自国産業を守りたい。時代背景が複雑でした。」


波音ちゃん「なるほど、大成功一直線というわけではなかったんですね。けれど需要はあったから、戦後ふたたび輸出が伸びて、いまや海外のスーパーにも並んでいると。」


展示の“手書き年表”に注目!


椿原さん「もう一つ注目してほしいのが、この年表。あえて手書きのまま残しています。印刷より温かみがありますから。」


波音ちゃん「本当だ。レトロな建物と手書き文字、雰囲気がぴったりです!」


懐かしの缶詰いろいろ


波音ちゃん「さて、こちらの棚は比較的新しい缶詰かな? “焼き鳥” や“プリンゼ”…?」


椿原さん「プリンゼはプリンとゼリーの中間のデザート缶。もう製造されていないかもしれませんが、皆さん反応しますね。焼き鳥缶のデザインは当時人気デザイナーが手掛け、CM の “焼き焼き~♪” を覚えている人も多いです。テレビ広告が流行を後押しした時代でした。」


波音ちゃん「見ただけでメロディーが頭に浮かぶって、わかります!」


館外へ――“最低賃金全国第1号記念碑”


椿原さん「本館との間にある石碑もぜひ。『最低賃金全国第1号記念碑』といって、昭和31年に静岡の缶詰業界が自主的に最低賃金を定めた証です。それが4年後の最低賃金法制定の土台になりました。」


波音ちゃん「ええっ、全国初が清水だったんですか! 女性のレリーフにも意味があるんですね。」


椿原さん「港町は荷役事故などリスクが大きく、昔から“助け合い”の精神が根付いていました。保険会社のルーツも廻船問屋ですしね。」


波音ちゃん「港で生まれた相互扶助の精神が、今の労働環境にもつながっているんだ…。フェルケール博物館、物流だけでなく社会史まで学べる場所なんですね!」


波音ちゃん「気づけばあっという間に時間です。椿原さん、5週にわたる詳しい解説をありがとうございました。来週からは興津の清見寺へ ぶらっと お邪魔します。お楽しみに!」




【観光案内ガイド風】

ようこそ!清水へ!

今日は、清水港のすぐそばにある「フェルケール博物館」を一緒に巡りましょう。特に注目したいのが、こちらの「缶詰記念館」。昭和の初めに静岡県で生まれた缶詰産業、その始まりから今に至るまでの歴史を体感できるんです。

入口を入ってすぐ、ちょっと見落としそうな場所にあるのが、アメリカへの輸出用として初めて使われた缶詰のラベル。本物は博物館に大切に保管されていて、ここではレプリカが展示されています。そのデザイン、いかにも昭和レトロで素敵ですよね。「富士丸」ブランドと書かれていますが、これは静岡県が所有していた練習船“藤丸”にちなんだ名前。静岡県が主導で始めたこの缶詰事業が、後に清水食品株式会社の設立へとつながるんです。

当時、味が良くて値段も手ごろだったこの缶詰は、アメリカで大変評判が良かったそうですよ。ただ、すぐに米国との貿易摩擦が起こってしまって、残念ながら順風満帆とはいきませんでした。でも、戦後になると再び輸出が始まり、今では日本の缶詰が世界中のスーパーで普通に見かけられるようになったんですね。

そしてぜひ注目していただきたいのが、この博物館の展示スタイル。説明パネルの多くが手書きなんです。これは、当時の温かさや雰囲気をそのまま伝えたいという工夫から。レトロな建物と手書き文字の相性、なんとも言えない魅力がありますよね。

館内には近代の缶詰もたくさん展示されています。例えば、プリンゼ。プリンとゼリーの中間のような食感で、当時とても人気がありました。焼き鳥の缶詰には、昔のテレビCM「焼き焼き〜♪」を思い出す方も多いんじゃないでしょうか。テレビや映画館で流れていたCMの記憶が、缶詰とともに蘇るんですね。

さて、外に出てみましょう。缶詰記念館と本館の間に、ひとつ石碑が建っています。気づかず通り過ぎてしまいそうですが、実はこれ、日本で初めて「最低賃金」を設定したことを記念した碑なんです。昭和31年、缶詰業界の企業間で自主的に決められたこの取り組みが、後に国会で「最低賃金法」が成立する土台となりました。

なぜそんな先進的な取り組みが清水から生まれたのか? それはこの土地が港町であり、相互扶助の精神が根づいていたから。海で働く人々は、何か事故があればすべてを失う危険を常に抱えていました。だからこそ、保険や助け合いの仕組みが早くから生まれたんです。東京海上など、今でも残る保険会社のルーツも、実はこうした廻船問屋にあるんですよ。

フェルケール博物館は、物流や缶詰の歴史だけではなく、こうした社会的背景や人々の想いまでも伝えてくれる、貴重な場所なんです。

さあ、いかがでしたか? 清水の誇る産業と、そこに込められた想いを、ぜひ心に刻んでくださいね。



Welcome to Shimizu!

Today, I’ll be your guide as we stroll through the “Verkehr Museum,” located right next to Shimizu Port. We’ll be focusing on the Canned Food Memorial Hall, where you can discover the rich history of canned goods born in Shizuoka at the beginning of the Showa era.

As we enter, there’s something small and easy to miss—over here, you’ll see a replica of the very first canned food label used for export to the United States in 1930 (Showa 5). The original is stored safely in the museum's archives, as it’s too delicate to display. The retro design feels truly nostalgic and stylish, doesn’t it? The label reads “Fujimaru,” named after a training ship once owned by Shizuoka Prefecture. This brand marks the beginning of Shizuoka’s canned food industry, which would later give rise to Shimizu Foods Co., Ltd.

Back then, the product's great taste and low cost made it a hit in the U.S., but unfortunately, trade friction with America arose just two years later. The historical context—Japan's need for foreign currency, America’s wariness of Japan’s expansion in China, and the Great Depression—made things difficult. Still, after World War II, Japan’s canned goods made a comeback, and today, you’ll find them on supermarket shelves all over the world.

One thing you’ll notice about this museum’s display style is the handwritten labels and timelines. The curators wanted to preserve that warm, human feeling. Combined with the retro architecture, it creates a nostalgic atmosphere that’s hard to replicate.

Inside the museum, you’ll also find more modern cans. One beloved item is “Purinze,” a dessert that’s somewhere between pudding and jelly. And then there’s the yakitori can, which might bring back memories of the classic “Yaki-Yaki~♪” commercial—a tune many older visitors still remember. These cans don't just hold food, they hold memories.

Now, let’s step outside. Between the canned food hall and the main building stands a small monument. It might not look like much, but it’s incredibly significant—it commemorates Japan’s first minimum wage initiative, which began right here in Shimizu’s canning industry in 1956. That effort became the foundation for Japan’s national Minimum Wage Law passed four years later.

Why Shimizu? As a port town, the people here understood the importance of mutual aid. A single maritime accident could ruin a business or a family, so concepts like insurance and worker protections naturally developed early. In fact, many major insurance companies in Japan trace their origins back to maritime merchants.

The Verkehr Museum doesn’t just teach us about logistics or canned food. It tells the story of people, compassion, and community spirit that shaped this port town into something truly special.

So, how did you like the journey? I hope you’ll carry a piece of Shimizu’s heritage in your heart from today’s visit.



【放送内容のテキスト文面】


さあ、今週もフェルケール博物館の館内をぶらっと見ていきましょう。


前回缶詰記念館の中で、缶詰の歴史やその頃使われていたらラベルを見ながら、椿原さんに解説していただきました。


今回も引き続き、缶詰記念館の展示物についてと、この缶詰記念館の周りにある展示物の注目ポイントなどを教えていただければと思います椿原さん。


本日もよろしくお願いします。



入口の方に戻りますけども、ここにですね、わかりますか?


小さいんで、ちょっと気がつかないんですけども、対米輸出向け、最初のラベル(複製)ってなってますけども、本物も博物館で収蔵してるんでですけども、日に焼けて薄くなっちゃうものですから、これはレプリカを紹介してるんですけども、今2枚だけ残ってます。昭和5年にアメリカに向けて、輸出を始めたときの一番最初の缶詰ラベルになります。


私も知らなかったんですけども、マグロの缶詰だけかと思ったら、3本線のはいったカツオの缶詰のラベルも一緒に残ってました。

静岡県にもそれが今残ってませんので、博物館にだけあるんですけども。

富士丸ブランドですね、この富士丸というのは、静岡県の持っていた練習船の名前が藤丸という名前です。その名前を取って富士丸ブランドということにしたそうですね。


このラベルから静岡の缶詰が始まったということになります。


静岡で昭和4年に開発された缶詰は、翌年にはアメリカへ輸出されていたんですよね。


これがその当時使われていた一番最初のラベルですか。


昭和を感じるレトロなデザインでおしゃれですね。


展示されているのはレプリカですが、このフェルケール博物館でしか見られない、とても貴重な資料ですね。


ラベルをよく見てみると、静岡県と書かれていますが、民間企業が自主的に缶詰を始めたというよりも、県の事業として缶詰開発をして、海外へ輸出したのが始まりということなんでしょうか。


この富士丸ブランドのものは完成品を売ったというよりも、試験的に販売をしたっていいますね。


そして、大変に好評だった。

味も良かったし、金額も安かったっていうことで、すぐにこれは経営がうまくいくということで、清水食品株式会社が設立をして、海外輸出を始めた。


さすが日本っていうか、静岡クオリティですね。

安くて美味しいとなれば海外でも需要があって、この缶詰事業は大成功という感じですかね。


ですけども、やっぱりもう2年後にはアメリカと日本の中で、貿易摩擦が起こってしまったっていうんですね。

当時のね、やっぱりあの状況考えると、あの戦争にも入ってくるじゃないですか。

だから日本は外貨が欲しいし、アメリカはもう中国に進出した日本を警戒をしていますよね。

そして、世界恐慌の後、これでしょ。


ですので、アメリカとすると、はい、アメリカの缶詰の業者を守らなきゃならないっていうのもありましたでしょうし、日本の場合には外貨を獲得していきたい。それから生活を安定していきたい。軍事物資であるっていうことも含めて、そういう結果になったということですよね。


そうなんですか。最初から大成功というわけではなかったんですか。

確かに時代背景を考えると、仲良く貿易ということができるような時代ではなさそうですね。


でも、海外での需要自体はあったので、戦争が終わって平和になった時代に、また輸出ができるようになって、今、海外のスーパーでも日本の缶詰が当たり前に並んでいるので、結果的に大成功っていうことですね。


ちなみに、ちょっと注意して見ていただきたいのが、この看板といいますかね、年表とか歴史を紹介したものなんですけども、雰囲気を残すために、わざと手書きのものを残しております。


今の印刷したものだと味気ないものですからね。


缶詰記念館はやっぱり手書きのものがあった方がいいなということで、手書きのものを残してます。


確かに言われてみれば、展示されている説明の資料は、手書きのものですね。


印刷されたものの方が見た目はいいですが、やはり手書きであった方が、人の思いや温かみというものが感じられますし、何よりこのレトロな建物と合っていますね。


その空間の雰囲気を踏まえて、展示の見せ方もちゃんと考えられているんですね。


では、もっと展示されている缶詰を見ていきましょうか。

あ!ここら辺にあるのは比較的最近の缶詰でしょうか。

面白そうなものが並んでいますね。


焼き鳥の缶詰とか、それから女性が喜ぶのはこのプリンゼですよね。


今はなくなっちゃったんじゃないすかねもう、プリンゼ、みんなこのプリンゼに反応しますよね。

あのプリンとゼリーのちょうど中間のようなものなんですけれども。


プリンゼ、初めて聞きました。

何かフルーツと一緒に盛られている写真が載っていて、冷やして食べる通りそうですね。

それからこの焼き鳥もあれですよね。


当時有名なデザイナーにお願いをして、書いてもらって。

ちょうどこの焼き鳥も年配の方はCMで「焼き焼き」って言ったのを覚えている人いると思いますね。


あの、この缶詰が本当に隆盛になったことって、あのテレビマスコミでCMを流すっていうのは、爆発的に流行したっていいますかね、その時期になるんですよね。


ですので映画館で缶詰載せCMを見たとか、テレビでCMを見たということで、頭の中に刷り込まれている人がものすごく多いんですよね。


ですので、そういう方はこの近代の缶詰の本物を見ると、あの頃のだっていうことを歴史がよみがえるって言いますかね、思わずニヤッと笑ってしまうっていうのはよくあります。


焼き焼き!今でもCMで使われていますね。


ここに並んでいる中で、私がテレビなどで見たことがある商品は多くはないですが、この焼き鳥缶詰みたいに、見ただけでそのCMに使われていたメロディーとか思い出しちゃいますね。

はい、缶詰記念館の中を一通り見終わってしまいました。


では、この建物を出て、周辺の展示物についても見ていきましょう。



それで今、缶詰記念館と常設展示の本館の間にですね、石碑が1個置かれてます。


意外と気がつかないんですけどもすごく重要なもので、最低賃金全国第1号記念碑というふうに呼んでいます。


この缶詰産業というのは、周囲の人たちの生活の安定も考えて、起業をされています。


ですので、昭和31年に公ではなくて、缶詰の企業間で、社員の最低賃金を設定をしたそうです。

それが前提となって、4年後の昭和35年に国会で最低賃金法が成立をしています。


ええ!最低賃金って、静岡の缶詰残業から始まっていたんですか、

地域の雇用機会を生み出す目的もあって、誰でも働きやすいように、缶詰ラベルも貼り付けやすいデザインになって行ったということですが、従業員の生活の安定を図るために最低賃金という設定も、この時代からしていたとは・・・・!


国の政策に先んじるものであったということで、それを記念して社団法人の静岡缶詰協会の入口に設置をされていました。


今の缶詰協会がビルの中に入りましたので、この缶詰記念館と一緒に保存をするのがいいだろうということで、こちらに持ってきて、皆さんに見ていただいております。

ですので、表面には女性のレリーフがはめ込まれているというのも意味があることなんですね。


全国で初めて最低賃金を設定した記念の、貴重な石碑がフェルケール博物館にあったなんて驚きです。


現在でも、国会で最低賃金とか、女性の雇用機会とか議論されていますが、静岡ではそんなに前から、それを問題視して、解決に取り組んでいたんですね。


何気なく歩いていたら見落としてしまいそうですが、これは清水に住む人がっていうか、静岡に住む人にはぜひ知っておいてもらいたいことですね。


あの元々ですね、港湾に関係する人たちっていうのは、そういう意識が強いんですけども。

というのも、いろいろ荷物を運んで売り買いとかしますよね。

そうしたときに1回海難事故があると潰れてしまいますよね。


ですので、相互扶助っていいますかね、そういう意識というのは、公安とか船の関係者に元々非常に強く持っていたんですよね。


ですからその表れとして、例えば、今の東京海上火災とか保険の会社とかあるじゃないですか。

あれわかるように廻船問屋とか、海に関係する人たちが作った保険会社っていうのは結構多いんですよ。


はい。

だからそういう、何でしょう、地域であったりとか、お互いに助け合うとかっていう考え方っていう考え方は、港湾に関係する人たちの中には、昔から根底にそういったものがあったっていうのはよくわかりますよね。


だからこの博物館自体も、そういった考え方っていうのを伝えるという意味もやっぱりありますので。はい。


確かに、普通の保険会社さんなのに、海に関係した名前がついているのは何でだろうと思っていましたが、海や川などで仕事をしていた人は、事故など、万が一に対する危機感が強くて、そこから保障とか保険とかという考えが生まれていたんですね。


港町で何かあっても助け合うっていうことが当たり前だった清水だからこそ、こういった最低賃金や女性の雇用機会といったことにいち早く気づいて、改善するために動いてきたんですね。


フェルケール博物館では、物流のことだけでなく、そんな社会問題への清水での取り組みなども知ることができるんですね。


かなりじっくり見て回ると奥が深いです。


気づいたらあっという間に時間が来てしまいました。


椿原さんありがとうございました。


5週にわたってフェルケール博物館をじっくり解説していただきましたが、来週から興津の清見寺さんで、ぶらっとしたいと思います。

bottom of page