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全盛時代の清水駅前銀座商店街 / Shimizu Stationfront Ginza Shopping Street at Its Height
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(II)http://www.isobekaikei.jp/pages/354/ 第十三話 清水駅前闇市通り物語 3.全盛時代の清水駅前銀座商店街 http://www.isobekaikei.jp/pages/490/ 全盛時代の清水駅前銀座商店街 清水駅前銀座商店街が、もっともにぎわっていたのはいつ頃だったのでしょうか。 戦後、バラックの店から始まった商店街では、昭和30年代になると、鉄筋造りの建物が少しずつ建つようになりました。ミナト市場、通称「みなとマーケット」も、昭和33年に鉄筋4階建ての建物になったそうです。トラヤの建て替えや長崎屋の出店もあり、商店街には大型店が加わっていきました。 金子さんは、昭和30年代後半から昭和48年頃までを、商店街がもっともにぎわった時期として振り返ります。当時は、通りを行き交う人の頭で、ここから駅前の大和屋が見えないほどだったといいます。今なら見通せる駅前までの通りが、買い物客で埋ま
2 日前


清水駅前闇市通り商店街 / Shimizu Stationfront YAMI-ICHI Shopping Street
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(II)http://www.isobekaikei.jp/pages/354/ 第十三話 清水駅前闇市通り物語 2.清水駅前闇市通り商店街 http://www.isobekaikei.jp/pages/487/ 清水駅前闇市通り商店街 清水駅前銀座商店街を歩きながら、戦後のまちの姿に思いを向けてみましょう。お話を聞いたのは、この商店街で乾物店「蒲原屋」を営む金子武さんです。 金子さんによると、昭和21年、満州から引き揚げてきた人たちが集まり、現在の株式会社ミナト市場につながる市場を発足させました。金子さんのご両親も、その一員でした。当時はおよそ70軒の店があり、いずれも戸板一枚から始まったといいます。 清水駅の前には、戦前から多少の店がありました。しかし、金子さんが戦後に見た駅前一帯は、戦争で焼け、建物がほとんど残っていなかったそうです。そこにミナト市場、通称「みなとマーケット」ができ、露店が並び始めます。店を出す人が増
2 日前


清水駅前銀座商店街を訪ねて / Exploring Shimizu Ekimae Ginza Shopping Street
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(II)http://www.isobekaikei.jp/pages/354/ 第十三話 清水駅前闇市通り物語 1.清水駅前銀座商店街を訪ねて http://www.isobekaikei.jp/pages/486/ 清水駅前銀座商店街を訪ねて 今回訪ねるのは、清水区真砂町にある清水駅前銀座商店街です。 毎日、多くの列車が発着するJR清水駅。通勤や通学で利用する人、清水を訪れる旅人、ここから新たな目的地へ向かう人が行き交います。 駅の西口、愛称「江尻口」へ出ると、タクシー乗り場の向こうに、どこか懐かしさを感じさせるアーケードが見えてきます。ここから南へ約400メートルにわたって続くのが、清水駅前銀座商店街です。 この商店街の歴史を知るには、清水駅の移り変わりを振り返る必要があります。 現在の清水駅は、明治22年に「江尻駅」として開業しました。当時の駅は、現在地よりも清水銀座に近い場所にありました。その後、大正15年に現在の
5 日前


ぶらっと清水【第29回】伏見さんと清見寺(6:最終回) / 日本平から駿河湾を一望できる素晴らしい景色を見ながら興津の歴史を聞く/Exploring Seikenji with Mr. Fushimi, Part 6: Stories of Okitsu from the Main Hall , A Panoramic View from Nihondaira to Suruga
<今日のお散歩まとめ> 清見寺は東海道の要所に建つ格式ある寺院で、建築や文化財から興津の歴史を知ることができます。 本堂入口の通路には、江戸時代に使われた大きなお駕籠の竿が残されています。 お駕籠は前後4人ずつ、合計8人で担ぐ大きさで、清見寺の高い格式を示しています。 江戸時代の清見寺は200石余りの朱印地を持ち、住職は将軍の代替わりに伴う更新手続きのため、江戸城へ向かったと考えられています。 本堂2階の「潮音閣」からは、日本平、三保の松原、駿河湾、伊豆半島まで、約180度の景色を見渡せます。 清見寺から富士山は見えませんが、少し海上へ出ると、駿河湾越しの富士山を望むことができます。 清見寺の眼下を通る東海道は、参勤交代の大名、朝鮮通信使、琉球使節などが往来した、日本の東西を結ぶ重要な道でした。 明治22年に東海道本線が境内の一部を通って開通し、電化されるまでは蒸気機関車が走っていました。 現在も周辺には東海道本線、国道1号、東海道新幹線、東名高速道路が集まり、交通の要所であり続けています。 約50年前までは清見寺のすぐ近くまで海がありましたが、
5 日前


ぶらっと清水【第28回】伏見さんと清見寺(5) / 書院のお部屋を探検 三保まで見渡せた清見寺/Exploring Seikenji with Mr. Fushimi, Part 5: Exploring the Shoin , A View from Seikenji to Miho, Fifty Years Ago
<今日のお散歩まとめ> 清見寺は、朝鮮通信使や琉球使節を迎えてきた、日本と海外との交流の歴史を伝える寺院です。 書院には、朝鮮通信使が約400年前に書いたとされる「潜龍室」の墨書きが残されています。 墨書きを和紙へ写し、木の板に彫って白色顔料で仕上げた「懸板」が、本堂に掲げられています。 琉球使節から贈られた三線には、琉球王朝の家紋である三つ巴が入り、2010年に沖縄県人会によって修復されました。 書院には、将軍や天皇を迎えた「玉座の間」と、位の高い僧侶などを迎える「接見の間」があります。 玉座の間には「折り上げ格天井」、接見の間には「折り上げ竿縁天井」が使われ、それぞれ格式の高い造りになっています。 接見の間の板絵には、花鳥のほか、琉球の城や朝鮮の寺院と思われる風景が描かれています。 書院の屋根は、八間、約15メートルにわたる一本の磨き檜と、軒下をめぐる「丸桁」によって支えられています。 書院からは心字池と庭園を望むことができ、風のない雨上がりには、水面にサツキや木々が映ります。 清見寺は古代の関所「清見ヶ関」を起源とし、本堂の回廊には、さすま
5 日前


ぶらっと清水【第27回】伏見さんと清水寺4/3匹の動物の石と明治天皇が滞在した書院で逆さ葵探し/Exploring Seikenji with Mr. Fushimi, Part 4: Three Animal-Shaped Stones and the Search for the Upside-Down Hollyhock in Emperor Meiji’s Reception Hall
<今日のお散歩まとめ> 清水区興津にある清見寺は、1300年を超える歴史を持ち、朝鮮通信使や皇室との交流、古代の関所「清見関」の記憶を伝える禅寺です。 本堂の裏手には自然の傾斜を生かした庭園があり、山の中腹にある「九曲泉の滝」から流れる水の音を聞くことができます。 九曲泉の滝は、木々の葉が落ちた冬の雨上がりなどに姿を現し、朝鮮通信使の記録にも、水量の豊かな立派な滝として残されています。 庭園には、明治天皇の内親王である常宮さまがお手植えになった紅梅があり、早春には鮮やかなピンク色の花を咲かせます。 庭園に面した書院は、江戸時代末期の慶応3年(1867年)に完成し、身分の高い方を迎える「玉座」が設けられています。 明治天皇は、明治2年(1869年)の東京への移動と、明治11年(1878年)の東海・北陸地方巡幸の際に清見寺を訪れています。 玉座には、若竹の成長を描いた狩野派の屏風絵や、中央に向かって高くなる「折上格天井」があり、格式の高い空間となっています。 書院の釘隠しや障子の桟には三つ葉葵の御紋が使われ、その中には「未完成の美」を表すとされる、上
8月25日


ぶらっと清水【第26回】伏見さんと清見寺(3) 橋になった芭蕉句碑 150年前の貴重な落書き 家康公 / A Walk with Mr. Fushimi at Seikenji Temple (3): The Bashō Monument That Became a Bridge,150-Year-Old Graffiti, and the Palanquin Never Returned
<今日のお散歩まとめ> 興津の清見寺には、橋になった芭蕉句碑、動物を表す庭石、150年以上前の落書き、徳川家康公ゆかりの乗輿などが残されています。 芭蕉句碑には「西東(にしひがし) 憐れさ同じ 秋の風」と刻まれていますが、文字の面を下にして、庭の石橋として使われています。 句碑は元禄の初めごろに興津宿へ建てられましたが、不況の原因とされて海へ捨てられそうになり、清見寺の住職が引き取ったと伝えられています。 清見寺の建物内には、句碑を持ち上げて泥を落とした際に撮影された、文字の刻まれた面の写真があります。 庭師の山本道斉が造ったとされる庭は、5種類の木と3つの動物を表す石が置かれた「五木三石のお庭」と呼ばれています。 五木は松・柏・梅・柿・蜜柑で、現在は柏が1本残っています。三石は、牛を表す臥牛石、虎を表す睡虎石、亀を表す遊亀石です。 家康公は松平竹千代と呼ばれていた幼少期、清見寺でも教育を受けたとされますが、「家康手習いの間」は後世に顕彰のため造られた部屋です。 壁から天井まで書かれた観音経は、幕末の修行僧による落書きと伝えられ、150年以上を経
7月28日


ぶらっと清水【第25回】伏見さんと清見寺(2) 結婚が残る天井...本堂の回廊から見えるお庭で一休み / A Walk with Mr. Fushimi at Seikenji Temple (2): The Blood-Stained Ceiling and a Relaxing Break in the Garden Seen from the Main Hall Corridor
<今日のお散歩まとめ> 清見寺の本堂には、琉球使節との関係を示す「永世孝享(えいせこうきょう)」の扁額が掲げられています。 琉球使節に同行していた具志頭王子が駿府城下で亡くなり、徳川家康公の命によって清見寺に葬られたと伝えられています。 琉球使節は江戸からの帰途に清見寺へ立ち寄り、具志頭王子を供養していました。 「永世孝享」には、王子の供養を末永く続けることや、寺と地域の人々に墓守を託す思いが込められているとされています。 本堂の大玄関は、元和二年(一六一六年)に徳川家康公の三女・振姫が寄進したと伝えられる唐破風造りの格式高い玄関です。 大玄関は、大名や皇族、使節など、身分の高い客を迎えるために使われていました。 大玄関の天井には、鎌倉時代初期の戦いで血が付いたと伝えられる板が使われ、「清見寺の血天井」と呼ばれています。 この血天井は、一二〇〇年にこの地で滅んだとされる梶原景時と、戦いで亡くなった人々の供養に関わるものと伝えられています。 回廊には、歴代の住職が残した記録や経典を収めた箱が数多く保管されています。 清見寺は東海道の要所にある格式の
7月15日

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