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羽衣ホテルと羽衣伝説、そしてエレーヌ / Hagoi Hotel, the Hagoromo Legend, and Hélène
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第十一話 羽衣伝説とエレーヌ夫人 4.羽衣ホテルと羽衣伝説、そしてエレーヌ http://www.isobekaikei.jp/pages/291/ 羽衣ホテルと羽衣伝説、そしてエレーヌ 三保の人々にとって、エレーヌ・ジュグラリス夫人と三保の松原は、今も特別な存在として受け止められています。羽衣の松に近い羽衣ホテルでは、エレーヌ夫人の写真が長く飾られてきました。写真の中の夫人は、強いまなざしを持つ情熱的な人物として印象に残ると語られています。 エレーヌ夫人が、遠いフランスから三保の松原に深い憧れを抱いたことは、地元の人にとっても不思議であり、同時に心に残る物語となっています。芸術に関わる人々の中には、エレーヌ夫人の話や、三保に建つ碑に強く関心を持つ人も多いといいます。 三保の松原は、富士山、海、松が一体となって受け継がれてきた場所です。その空間には


エレーヌのメモリアルコーナー / Hélène’s Memorial Corner
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第十一話 羽衣伝説とエレーヌ夫人 3.エレーヌのメモリアルコーナー http://www.isobekaikei.jp/pages/290/ エレーヌのメモリアルコーナー 静岡市立清水中央図書館には、エレーヌ・ジュグラリス夫人に関する資料を紹介するメモリアルコーナーがあります。この展示は、平成四年の図書館開館に合わせ、ご遺族から寄贈された品々を中心につくられました。 展示の中には、夫のマルセル氏が清水を訪れた際に持参した、エレーヌ夫人の遺髪を納めた袋があります。遺髪は三保に建てられた羽衣の碑にも納められており、その一部が図書館にも展示されています。 また、能「羽衣」を演じる際にエレーヌ夫人が身にまとった衣装も展示されています。写真や資料を参考にしながら、布を選び、縫製し、絵も自ら描いて作った衣装とされています。最後までこの衣装をまとって舞ったと伝え


清水第五中学と羽衣の舞 / Shimizu Fifth Junior High School and the Dance of Hagoromo
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第十一話 羽衣伝説とエレーヌ夫人 2.清水第五中学と羽衣の舞 http://www.isobekaikei.jp/pages/289/ 清水第五中学と羽衣の舞 三保の羽衣祭りでは、地元の清水第五中学校の生徒たちも、授業の一環として能「羽衣」に取り組んでいます。薪能の本番を前に、生徒たちは同じ舞台で「子供能楽」として、その成果を発表します。 指導にあたるのは、清水第五中学校の卒業生であり、宝生流能楽師シテ方として活動する佐野登さんです。稽古では、生徒たちが仕舞や謡に取り組み、最後の総仕上げとして、佐野さん自身が生徒たちの謡に合わせて舞を披露しました。 仕舞で「羽衣」を舞う生徒は、能の動きについて、動くところは動き、止まるところはしっかり止まる、その独特の難しさを感じたと話しています。ゆっくりとした動きの中で姿勢を保つことや、扇の持ち替えが特に難しかっ


三保・羽車神社を訪れて / Visiting Hagoromo Shrine in Miho
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第十一話 羽衣伝説とエレーヌ夫人 1.三保・羽車神社を訪れて http://www.isobekaikei.jp/pages/288/ 三保・羽車神社を訪れて 三保の松原は、羽衣伝説で広く知られる場所です。この浜では毎年十月初めに「羽衣祭り」が開かれ、能「羽衣」の世界が三保羽衣薪能として上演されます。 羽衣の物語では、漁師の白龍が松の枝に掛かった天人の羽衣を見つけます。天人は衣を返してくれれば天の舞楽を見せると約束しますが、白龍はそのまま天へ帰ってしまうのではないかと疑います。天人は、疑いは人間にあるもので、天には偽りがないと語り、白龍は恥じて羽衣を返します。 この羽衣伝説に深く心を寄せた人物に、フランスの舞踏家エレーヌ・ジュグラリス夫人がいます。エレーヌ夫人は一九一六年に生まれ、フランスで舞踏家として活動しました。西洋舞踏だけでなく、東洋の芸能で


5.徳川慶喜公と追分羊かん / Tokugawa Yoshinobu and Oiwake Yokan
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第十話 追分羊かんとその歴史 5.徳川慶喜公と追分羊かん http://www.isobekaikei.jp/pages/285/ 徳川慶喜公と追分羊かん 追分羊かんには、江戸末期から明治へと移り変わる時代を伝える貴重な掛け軸が残されています。これは、十五代将軍・徳川慶喜が、追分羊かんの十一代当主・府川佐太郎に求められて書いたものと伝えられています。 掛け軸には「静中観物化」と記されています。「静中」は、隠居後の静かな空間を意味し、「観物化」は、世の中の変化を見つめるという意味に解釈されています。つまり、静かな隠居の身でありながら、明治という時代が着実に進んでいく様子を感じている、という心境を表した言葉とされています。 また、掛け軸には皇紀二五三六年、西暦では一八七六年にあたる年も記されています。これは明治九年にあたり、徳川家が皇室のもとで長く政治


『追分羊かん』の由来 / The Origin of “Oiwake Yokan”
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第十話 追分羊かんとその歴史 4.『追分羊かん』の由来 http://www.isobekaikei.jp/pages/284/ 『追分羊かん』の由来 追分羊かんには、昔の旅にまつわる由来が伝えられています。初代の先祖が箱根を通っていた時、旅の途中で病にかかった明の僧に出会い、心を込めて介抱したそうです。やがて病が癒えた僧は、その感謝として、小豆の羮づくりの秘法を教えたと伝えられています。 追分羊かんの羊かんは、現在多く見られる煉り羊羹ではなく、昔ながらの蒸し羊羹です。餡を竹の皮に包み、蒸して作ります。包装にも竹の皮が使われており、これも先祖から受け継がれてきた形だといいます。 製造は今も屋敷内で手作業により行われています。小豆を煮て餡を作り、竹の皮を水に浸して丁寧に洗い、その竹皮で餡を包みます。さらに竹皮の端から取った紐で一本ずつ結ぶため、大変手


軽便鉄道(静岡鉄道) / The Light Railway (Shizuoka Railway)
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第十話 追分羊かんとその歴史 3.軽便鉄道(静岡鉄道) http://www.isobekaikei.jp/pages/283/ 軽便鉄道(静岡鉄道) 東海道を行き交う旅や荷の運び方は、時代とともに変化してきました。明治に入ると、清水にも新しい交通手段が登場します。 清水次郎長は、清水港に岸壁を造る必要を訴え、江戸時代以来の廻船問屋たちに働きかけたと伝えられています。その中心となったのが、播磨屋*という廻船問屋でした。岸壁が整うと、清水港からお茶を直接輸出する道が開かれていきました。 当時、静岡の茶町には多くのお茶問屋がありました。そこから清水港へお茶を運ぶために使われたのが、軽便鉄道、のちの静岡鉄道です。その線路は、現在の追分羊かんの前を通る旧東海道の道筋を利用していたといいます。 線路は追分羊かんの前を通り、入江小学校の向こう側、入江岡方面へ向


道標(みちしるべ)について / About the Stone Guidepost
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第十話 追分羊かんとその歴史 2.道標(みちしるべ)について http://www.isobekaikei.jp/pages/282/ 道標(みちしるべ)について 追分羊かんの店先には、現在も石の道標が残されています。この道標は清水市、のちに静岡市の文化財となったもので、元禄十年ごろに建てられたのではないかと考えられています。 東海道に面した正面には、「是より志ミづ道」と刻まれています。これは、ここから清水湊へ向かう道であることを示すものです。東側には「南無妙法蓮華経」、裏側には「七面大明神守護」とあり、建てた人物が日蓮宗を信仰していたことがうかがえます。また、別の面には建立者の名前も刻まれており、その記載から年代が推定されています。 この道標は、清水湊に陸揚げされた荷物や旅人が東海道へ入る目印であり、東海道を通ってきた人々が清水湊へ向かう分かれ道

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