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『追分羊かん』を訪ねて / Visiting “Oiwake Yokan”
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第十話 追分羊かんとその歴史 1.『追分羊かん』を訪ねて http://www.isobekaikei.jp/pages/281/ 『追分羊かん』を訪ねて 東海道には、各地へ向かう分かれ道がいくつもありました。現在の清水区にも、街道の分岐を意味する「追分」という地名が残っています。その場所で古くから店を構えるのが「追分羊かん」です。 追分羊かんのある場所は、東海道と清水湊へ向かう「志ミづ道(清水道)」が交わる大切な分岐点でした。交差点であることから「追分」と呼ばれ、店も東海道追分の羊かんとして、自然に「追分羊かん」と呼ばれるようになったといいます。羊かん作りは約三百二十年続いているそうです。 店の前を通る道が旧東海道です。かつては松並木が残っていたと伝えられていますが、戦時中になくなったといいます。その道を大名行列が通り、旅人が行き交った時代を思い


次郎長の船宿『末広』を訪ねて / Visiting Jirocho’s Boathouse “Suehiro”
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第九話 清水次郎長と梅蔭寺 5.次郎長の船宿『末広』を訪ねて http://www.isobekaikei.jp/pages/279/ 次郎長の船宿『末広』を訪ねて 清水次郎長は、明治十九年十一月に船宿「末広」を開きました。そして明治二十六年、その二階で三代目お蝶さんに見守られながら生涯を閉じたと伝えられています。 お蝶さんは、次郎長の十七回忌にあたる明治四十二年、新聞の回顧談で、次郎長は人にお金を与えることが好きで、帳場に座っていると客に金を渡してしまい、商売にならなかったと語っています。晩年の次郎長の人柄をうかがわせる話です。 船宿「末広」は、もとは波止場にありましたが、昭和十三年に桜橋の北側へ移されました。その後、解体される際に、次郎長ゆかりの建物として部材が残され、現在は外観や残された部材を用いて再建されています。再建された建物に残る柱や材


次郎長とお蝶さん / Jirocho and Ocho-san
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第九話 清水次郎長と梅蔭寺 4.次郎長とお蝶さん http://www.isobekaikei.jp/pages/278/ 次郎長とお蝶さん 梅蔭寺の遺物館には、清水次郎長ゆかりの品々が納められています。展示品の多くは、三代目お蝶さんの跡継ぎである入谷家から寄進されたものです。 次郎長が身につけた胴着として伝わるものは、鎖帷子です。刃を通しにくくするため、喧嘩や争いの際に身につけたものとされています。次郎長の身長は一メートル六十センチ弱で、明治の人としては中肉中背だったといいます。一方、子分の大政の胴着は大きく、体格の違いを感じさせます。 館内には、博打に関わる道具も残されています。勝ち負けの額を金銭に換えるための駒札、壺振りに使う壺、サイコロなどです。浪曲や映画で描かれる、旅から旅へと渡り歩いた時代の次郎長を知る手がかりとなっています。...


明治の清水次郎長の功績 / The Achievements of Shimizu Jirocho in the Meiji Era
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第九話 清水次郎長と梅蔭寺 3.明治の清水次郎長の功績 http://www.isobekaikei.jp/pages/277/ 明治の清水次郎長の功績 明治の清水次郎長は、舞台や映画で語られる侠客としてだけでなく、地域の発展に力を尽くした人物としても知られています。 明治に入ると、生糸とお茶は日本の重要な輸出品となりました。次郎長は、静岡のお茶をアメリカへ輸出することに後半生をかけたといいます。当時、清水港はまだ開港場ではなかったため、外国へ輸出するには横浜港を経由する必要がありました。そのため、静岡のお茶を清水港から横浜港へ運ぶ蒸気船の仕組みが重要になりました。 この時期に、静岡丸、清川丸、三保丸といった中型の蒸気船が造られ、静隆社(せいりゅうしゃ)という船会社が設立されました。静岡の茶商、横浜の商人、清水港の廻船問屋を結びつけ、この会社づくり


清水次郎長の話 / The Story of Shimizu Jirōchō
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第九話 清水次郎長と梅蔭寺 2.清水次郎長の話 http://www.isobekaikei.jp/pages/276/ 清水次郎長の話 梅蔭寺の境内には、清水次郎長の銅像が建てられています。現在の銅像は二代目にあたります。初代の銅像は、明治元年と同じ戊辰の年にあたる昭和三年、明治維新から六十年後に建てられました。これは、次郎長が明治元年に駿府城を守ったと伝えられていることに由来しています。 銅像の背後には駿府城を表す石垣があり、前にはお堀を表す池があります。座っている次郎長は東北、富士山の方角を向いており、富士の裾野の開墾に関わった次郎長の姿を伝えています。初代の銅像は、昭和十八年、太平洋戦争中の金属類回収令によって供出されました。その後、昭和二十七年、次郎長の六十回忌にあたる年に再建されたものが、現在の二代目の銅像です。 次郎長の生家は、梅蔭寺


次郎長の菩提寺、梅蔭寺を訪ねて / Visiting Baienji Temple, the Family Temple of Jirōchō
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第九話 清水次郎長と梅蔭寺 1.次郎長の菩提寺、梅蔭寺を訪ねて http://www.isobekaikei.jp/pages/275/ 次郎長の菩提寺、梅蔭寺を訪ねて 清水次郎長の菩提寺である梅蔭寺には、今も次郎長を慕う人々が訪れています。次郎長は明治二十六年、一八九三年に七十四歳で亡くなりました。境内には、次郎長と三人のお蝶さん、そして子分の中心人物であった大政、小政、増川仙右衛門の墓があります。森の石松の墓も裏手にありますが、こちらは遺骨を納めたものではなく、供養塔とされています。 大政と小政の墓は、周囲が欠けて丸みを帯びています。これは、勝負事の際に墓の破片を持っていると運がつくと信じられ、削って持ち帰る人がいたためだそうです。現在は墓を守るため、柵が設けられています。 一方、次郎長の墓は、埼玉県の三波石という自然石で造られています。大変丈


国宝級の阿弥陀仏 / A National-Treasure-Class Amida Buddha
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第八話 信康公菩提寺、江浄寺を訪ねて 5.国宝級の阿弥陀仏 http://www.isobekaikei.jp/pages/266/ 国宝級の阿弥陀仏 江浄寺の本堂には、御本尊である阿弥陀如来像が祀られています。この阿弥陀如来像は木彫の寄木造で、木を組み合わせた像の上に漆を重ね、その上から金泥や金箔を施したものです。亡くなった人を極楽へ迎える姿を表す「来迎相」の阿弥陀如来とされています。 造られた時代は、平安時代後期から鎌倉時代初期と考えられています。像の内部には巻物などが納められており、現在も調査が続けられています。その調査の中で、安政の地震の際に阿弥陀如来像が本堂の下敷きになったこと、その後、当時の住職が京都の仏師に修復を依頼したことを記した木札も見つかっています。 また、体内の納入品とは別に、由緒書などを記した巻物も多く残されているそうです。


赤ん坊を膝に抱いたマリア観音 / Visiting the Maria Kannon Holding a Child
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第八話 信康公菩提寺、江浄寺を訪ねて 4.赤ん坊を膝に抱いたマリア観音 http://www.isobekaikei.jp/pages/265/ 赤ん坊を膝に抱いたマリア観音 江浄寺には、徳川信康公の五輪塔や松浦源太郎成清の恋塚とともに、明治時代に建立された観音像も祀られています。この観音像は、明治維新後に初めて大蔵大臣を務めた井上馨侯爵ゆかりのものです。井上侯爵は観音信仰が厚く、平和な世の中を願って、この像を造らせたと伝えられています。 制作を依頼されたのは、当時の東京美術学校、現在の東京藝術大学に関わる高村光雲と岡崎雪聲です。観音像は赤ん坊を膝に抱いた姿で、西洋に憧れた明治時代の雰囲気を反映し、観音も赤ん坊も西洋風の姿をしています。その姿から「マリア観音」とも呼ばれています。 もとは井上馨侯爵が興津に持っていた別荘の中に祀られていました。興津に

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