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清見寺を後にして / Leaving Seikenji Temple
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第六話 清見寺と清見ヶ関 7.清見寺を後にして http://www.isobekaikei.jp/pages/249/ 清見寺を後にして 清見寺は、街道を取り締まる清見関の守りとして、また外交使節を迎える場として、さらに人々が安らぐ寺として、長い歴史の中でさまざまな役割を担ってきました。平成の時代になっても、その境内には歴史と文化が静かに受け継がれています。 清見寺へは、JR興津駅から徒歩およそ十五分です。古代の関所、朝鮮通信使、咸臨丸、庭園や血天井など、時代ごとの記憶をたどりながら歩くことができます。 清見寺を後にして周辺を少し散策した後は、昼食に清水の「河岸の市」方面へ向かいました。今回は、「河岸の市」の隣にできた「まぐろ館」を訪ねました。「河岸の市」は多くの人でにぎわっていましたが、「まぐろ館」は比較的ゆったりしていたとのことです。 Lea


血天井で有名な大玄関を拝見して / Visiting the Grand Entrance Known for the “Blood Ceiling”
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第六話 清見寺と清見ヶ関 6.血天井で有名な大玄関を拝見して http://www.isobekaikei.jp/pages/248/ 血天井で有名な大玄関を拝見して 清見寺の本堂には、関所を守る寺としての歴史を伝える重要な構造物が残されています。本堂正面から見て左側にある玄関は、普段は開けられることのない特別な場所です。寺で葬儀が行われる時や、新しい住職が着任する時など、限られた機会に使われる玄関とされています。 この玄関は、徳川家康の娘である振姫が寄進したものと伝えられています。見上げると、板張りの天井に白く見える部分や、馬の蹄の跡のように見える箇所があります。これは「清見寺の血天井」と呼ばれています。 その由来は、鎌倉時代の正治二年、西暦一二〇〇年にさかのぼります。梶原平三景時が、清見寺の近くにあった清見関で、郷土の武士である入江一族に襲われ


名勝清見寺庭園を訪ねて / Visiting the Scenic Seikenji Garden
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第六話 清見寺と清見ヶ関 5.名勝清見寺庭園を訪ねて http://www.isobekaikei.jp/pages/247/ 名勝清見寺庭園を訪ねて 清見寺の本堂脇からは、静かな庭園を望むことができます。これは文部省、または文化庁の指定を受けている清見寺庭園です。庭の中央には池が配され、その周囲には白砂が敷かれています。奥からは滝が流れ落ち、池の水が流れ出すところには石の橋が架かっています。 この石橋は、もとは松尾芭蕉の句碑でした。「西東 あわれさ同じ 秋の風」という句が刻まれ、かつては興津の町に建てられていたそうです。しかし、句碑を建てた後に興津宿が寂れたと受け止められ、取り除かれようとしました。それを見た清見寺の住職が引き取り、庭園の石橋として用いたと伝えられています。住民感情に配慮し、句が刻まれた面を下にして据えたため、現在は橋として見える


清見関(きよみがせき)の置き土産 / The Legacy of Kiyomigaseki
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第六話 清見寺と清見ヶ関 4.清見関(きよみがせき)の置き土産 http://www.isobekaikei.jp/pages/244/ 清見関(きよみがせき)の置き土産 清見寺には、五百羅漢と並んで、この寺を象徴する歴史資料が残されています。それが、朝鮮半島から日本を訪れた外交使節、朝鮮通信使に関わる扁額です。 ここでいう「通信」とは、情報を伝えるという意味ではなく、「よしみを通じる」、つまり親しく交わり、心を通わせるという意味だと説明されています。朝鮮通信使は、江戸へ向かう時や江戸から戻る時に清見寺を宿所や休憩の場所として利用しました。言葉は直接通じなくても、漢詩を通して清見寺の住職と交流し、そのやりとりが扁額として寺に残されています。清見寺は、日本の外交史だけでなく、朝鮮との交流史を考える上でも重要な場所とされています。 本堂の横を通ると、も


清見寺と明治の激動 / Seikenji Temple and the Upheaval of the Meiji Restoration
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第六話 清見寺と清見ヶ関 2.清見寺と明治の激動 http://www.isobekaikei.jp/pages/244/ 清見寺と明治の激動 清見寺の境内には、明治維新の激動を伝える「咸臨丸殉難の碑」が残されています。 咸臨丸は万延元年、日米修好通商条約の批准書交換の遣米使節団として太平洋を渡った船です。その後、戊辰戦争の際には榎本武揚の指揮のもと品川沖を脱走し、函館を目指しました。しかし台風で大きく損傷し、修理のため清水へ入港します。 このとき咸臨丸は、武器弾薬などの兵装を下ろしていたとされています。ところが新政府軍の軍艦三艘から砲撃を受け、白旗を掲げて降伏の意思を示していた乗組員の多くが亡くなりました。遺体は海中に投棄され、清水港周辺の住民や漁民にも大きな影響を与えたと伝えられています。 岸に流れ着いた旧幕府軍の戦死者を集めて埋葬したのが、清


清見関(きよみがせき)と清見寺(せいけんじ) / Kiyomigaseki Barrier and Seikenji Temple
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第六話 清見寺と清見ヶ関 1.清見関(きよみがせき)と清見寺(せいけんじ) http://www.isobekaikei.jp/pages/243/ 清見関(きよみがせき)と清見寺(せいけんじ) 清水港の興津埠頭から山側へ入ると、長い石段の先に、東海道でも古い寺として知られる清見寺があります。今回は、歴史家の佐野明生さんに案内していただきました。 清見寺は、現在は臨済宗妙心寺派のお寺ですが、その始まりはおよそ一三〇〇年前にさかのぼります。第40代天武天皇の時代、西暦六七〇年代ごろ、もとは天台宗の寺として建立されたといいます。すぐ前には「清見関」という関所があり、その関所を守るため、国家によって建てられた官寺であったと説明されています。 その後、鎌倉時代には勢いが衰えたものの、禅宗の寺として中興されました。さらに戦国時代、徳川家康がこの寺に預けられて


隠し階段から蔵の下へ / From the Hidden Staircase to Beneath the Storehouse
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第五話 望岳亭・藤屋 5.隠し階段から蔵の下へ http://www.isobekaikei.jp/pages/240/ 隠し階段から蔵の下へ 鉄舟が逃れたと伝えられる隠し階段を下りると、蔵の下に設けられた秘密の出口へと続きます。そこには、外から簡単に開けられないようにするための閂がありました。中からは開けられますが、外からは破られにくい構造になっており、隠し階段の存在が知られなければ、蔵の下は守られる仕組みだったといいます。 出口へ向かうには、複数の扉を順に開ける必要があります。土戸と呼ばれる重い扉もあり、当時、大切な財産を守るために厳重な構造が考えられていたことがわかります。扉を抜けて外へ出ると、現在はJRの線路がありますが、当時はその先が海でした。蔵の外には階段があり、そこを降りると砂浜へ出られたと伝えられています。 鉄舟は、この出口から外へ


蔵座敷に案内されて / Guided to the Storehouse Reception Room
本ページは清水区の森田いそべ会計様のご許可をいただき、清水にまつわる下記のお話を編集してご紹介しております。 清水歴史散策(I)http://www.isobekaikei.jp/pages/219/ 第五話 望岳亭・藤屋 4.蔵座敷に案内されて 蔵座敷に案内されて 山岡鉄舟の命を救ったと伝えられる蔵座敷へ、案内していただきました。望嶽亭・藤屋に残るこの蔵は、もともと総二階の石蔵で、外側を漆喰で覆った造りです。観音開きの扉には鍵が掛けられ、普段は滅多に開けることのない部屋だったといいます。扉は一枚板のような単純な造りではなく、段を組むように作られており、火がまっすぐ入り込まない工夫がされています。 この蔵は、米蔵や味噌蔵とは異なり、家が焼けても望嶽亭を再建できるだけの財産を守るために造られたものでした。扉も石でできており、さらに漆喰で二重に守られています。内部は畳十五畳に板の間と戸棚を備え、全体で二十畳ほどの広さがあります。床の間も設けられていますが、日常生活に使う部屋ではなく、私的な客間としての座敷でした。 蔵座敷の中には、望嶽亭の歴史を伝える

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