ぶらっと清水【第18回】興津に別荘 / Whispers of History: The Villas of Okitsu
- 山内 真一
- 5月10日
- 読了時間: 15分
<今日のお散歩まとめ>
清見寺の見どころとして、まず徳川家康の娘が寄進した重厚な玄関が紹介される
庫裏へ向かう道沿いにある「臥龍梅」は、与謝野晶子が短歌を詠んだとされ、地酒「臥龍梅」の名前の由来にもなっている
臥龍梅の向かいには鐘楼があり、1590年に豊臣秀吉が小田原攻めの陣鐘として借用し、借用書も残されている
鐘は戦後もすぐには戻らず、江戸時代中期に箱根で発見されて返却された
鐘楼には朝鮮通信使が贈った「瓊瑶世界」という友好を象徴する言葉が刻まれた板が掲げられている
清見寺は武田・豊臣・徳川の各時代の歴史が詰まった文化財の宝庫である
興津は明治時代に皇族や政財界の要人の避暑地・別荘地として栄えた歴史があり、大正天皇(当時皇太子)も清見寺を訪れて海水浴を楽しんだ
別荘には西園寺公望の「坐漁荘」や井上薫の「長者荘」などがあり、今も一部が見学可能
アクセスの良さ、美しい景観、温暖な気候が別荘地として選ばれた理由
清見寺と興津を実際に訪れることで、景色と歴史の両方を体感できる
Seiken-ji Temple features a grand entrance gate donated by Tokugawa Ieyasu’s daughter
The “Garyubai” plum tree along the path to the kitchen hall inspired a tanka poem by Akiko Yosano and gave its name to the local sake brand “Garyubai”
Opposite the plum tree stands a bell tower; in 1590, Toyotomi Hideyoshi borrowed its bell as a battle signal bell during the Odawara campaign, leaving a written receipt
The bell was not returned immediately and was later rediscovered in Hakone during the mid-Edo period
A plaque on the bell tower bears the phrase “Keiyō Sekai,” a symbol of friendship between Japan and Korea gifted by Korean envoys
Seiken-ji embodies historical elements from the Takeda, Toyotomi, and Tokugawa periods, making it a cultural heritage treasure
Okitsu flourished as a summer retreat in the Meiji era, with royals and political elites, including the Crown Prince (later Emperor Taisho), visiting for seaside leisure
Famous villas included Saionji Kinmochi’s “Zagyoso” and Kaoru Inoue’s “Chojaso,” some of which can still be visited today
Okitsu’s appeal as a villa site lay in its accessibility from Tokyo, beautiful scenery, and warm climate
Visiting Seiken-ji and Okitsu offers a rich experience of both stunning views and layered historical depth
【提供】
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
【ぶらっと清水 第18回】
ぶらっと清水 ~清見寺と臥龍梅~
波音ちゃん:さあ、今週も始まりました「ぶらっと清水」。今日は、前回に引き続き、興津の清見寺からお届けします。椿原さん、よろしくお願いします!
椿原さん:よろしくお願いします。今回も清見寺の魅力をじっくりご案内していきますね。
波音ちゃん:前回は、朝鮮通信使との交流や、武田家の水軍を支えた向井氏の供養塔のお話が印象的でしたよね。今日はその供養塔の近くからスタートです。
椿原さん:はい、まず目の前に見えてくるのが五百羅漢。そしてその手前に見える、立派な玄関の建物が目を引きますよね。
波音ちゃん:あれ、本堂の入り口ですよね?すごく重厚で格式がある感じです。
椿原さん:そうなんです。実はこの玄関、徳川家康の娘さんが寄進されたものなんですよ。本堂の後に建てられたんですが、堂々とした佇まいですよね。
波音ちゃん:えぇー!家康の娘さんからの寄贈なんて、さすが清見寺ですね。では次は…?
椿原さん:山門に一度戻って、そこから庫裏(くり)の方へ歩いていきましょう。道の途中、左側に注目してみてください。
波音ちゃん:あっ、枝が地を這うように伸びている梅の木ですね!何だか龍が伏しているよう…。
椿原さん:それが「臥龍梅(がりゅうばい)」です。与謝野晶子もここで短歌を詠んだと言われています。そして、地元清水の地酒「臥龍梅」の名の由来にもなった木なんですよ。
波音ちゃん:へぇ〜、あのお酒の名前ってこの梅から来てたんですね!確かに、名前の通りの姿です。
椿原さん:臥龍梅の反対側、海側には「鐘楼(しょうろう)」があります。今は中に入れませんが、鐘が吊るされています。
波音ちゃん:あ、ちょっとだけ鐘の部分が見えました!この鐘にも歴史があるんですか?
椿原さん:はい。1590年、豊臣秀吉が小田原攻めに向かう途中、この鐘を「戦の陣鐘」として借りていったんです。そのときの“借用書”も、清見寺に残っているんですよ。
波音ちゃん:鐘に借用書!?なんだか可愛いですね。でも…返すのは随分遅かったみたいですね(笑)
椿原さん:その通り(笑)。鐘が戻ってきたのは江戸時代の中頃、箱根で見つかったんです。
波音ちゃん:鐘楼の掛板にも注目ですね。なんて書いてあるんでしょう?
椿原さん:「瓊瑶世界(けいようせかい)」と刻まれています。朝鮮通信使が日本との友好の証として贈った言葉で、“美しい玉のように輝く日朝の友好”という意味です。
波音ちゃん:素敵な言葉ですね。歴史の背景を知ると、見る景色の意味がぐっと深まります。
椿原さん:本当にそうですね。清見寺には、武田、豊臣、徳川…様々な時代の歴史が詰まっていて、まさに文化財の宝庫です。
波音ちゃん:それに加えて、興津という場所自体にも驚きの歴史があったんですね。別荘地だったとは!
椿原さん:明治時代、興津は避暑地としても人気でした。大正天皇(当時は皇太子)も清見寺に滞在され、海水浴も楽しまれました。
波音ちゃん:それがきっかけで、政財界の要人たちも別荘を建てるようになったんですね。
椿原さん:はい。西園寺公望の「坐漁荘」や、井上薫の「長者荘」などもありました。当時は東京から東海道線で5時間50分。1日で移動できる距離だったのも魅力でした。
波音ちゃん:アクセスも良くて、景色も抜群。確かに、別荘地にぴったりですね。
椿原さん:今も、当時の名残を感じられる場所が残っていますので、ぜひ訪れてみてください。
波音ちゃん:清見寺と興津の歴史、たっぷり楽しませていただきました。景色と歴史、どちらも味わえるって贅沢ですね。
椿原さん:ぜひ皆さんも、実際に足を運んで、この歴史の空気を感じてください。
波音ちゃん:それでは、また次回の「ぶらっと清水」でお会いしましょう〜!
【観光案内ガイド風】
ようこそ!清水へ!
今日は、歴史と文化の宝庫「清見寺」をご案内します。ここ興津の地には、何世紀にもわたって多くの歴史が刻まれてきました。前回お話しした向井氏の供養塔や、朝鮮通信使との交流記録に続いて、今回はその周辺から歩いていきましょう。
まず目に飛び込んでくるのは、圧倒されるほど立派な玄関。この玄関は、なんと徳川家康の娘が寄進したものなんです。本堂の入口としての風格をたたえていますね。清見寺を訪れる人々を迎えるにふさわしい佇まいです。
さて、ここから一度山門の方に戻り、左手の庫裏(くり)に向かって歩いていきましょう。道沿い、左手に目を向けると、枝が地を這うように伸びる一本の梅の木があります。この梅は「臥龍梅(がりゅうばい)」と呼ばれ、龍が伏しているような姿から名付けられました。
実はこの木、与謝野晶子がここで短歌を詠んだと伝わるほど由緒あるもので、地元の地酒「臥龍梅」の名前の由来にもなっています。名前を知っていても、由来を知る人は意外と少ないんですよ。
そして臥龍梅の反対側、海に面した場所には鐘楼があります。大きな鐘が吊るされているこの鐘楼にも、深い歴史があるんです。
戦国時代末期、豊臣秀吉が小田原攻めに向かう途中、この鐘を「陣鐘」として持ち出しました。なんと借用書まで残されており、戦が終わってからもすぐには戻らず、江戸時代中期に箱根の山中で発見されてようやく戻されたという逸話付きです。
さらに鐘楼に掲げられた「瓊瑶世界(けいようせかい)」の文字は、朝鮮通信使が記したもの。日本と朝鮮、二つの国を美しい宝玉にたとえた、平和と友好を願う言葉です。
こうして見ていくと、清見寺はただの古刹ではなく、外交、戦争、文化が交差する歴史の交差点だったことがわかります。
最後に少しだけ興津の話を。実はこの地、明治時代から昭和初期にかけて、高級別荘地として栄えていたんです。皇族も滞在した由緒ある宿「水口屋」、西園寺公望の別荘「坐漁荘」など、今もその名残が残っています。
なぜここが選ばれたかというと、東京から日帰りも可能なアクセスの良さ、雪の降らない温暖な気候、そして何よりこの美しい景観です。
そんな歴史と自然に恵まれた清見寺と興津、ぜひ一度、皆さんの足で歩いてみてください。新しい発見がきっと待っていますよ。
Welcome to Shimizu!
Today, let me take you on a special journey through one of Shimizu's historical gems—Seiken-ji Temple in Okitsu. This place is not just a temple—it’s a living tapestry of diplomacy, military history, and culture.
As we start our walk, take a look at that grand entrance. Impressive, isn’t it? This stately gateway was donated by none other than the daughter of Tokugawa Ieyasu. It stands with dignity, welcoming visitors just as it did centuries ago.
Now, let’s head back toward the main gate and walk along the path to the left, toward the temple kitchen. Along the way, look to your left. Do you see that unique plum tree with branches crawling like a dragon along the ground? That’s the Garyubai, the “Reclining Dragon Plum.” It’s said that Akiko Yosano, a famous poet, wrote a tanka poem under this very tree.
And here’s a fun connection—if you've ever heard of the local sake called Garyubai, this is where the name comes from!
Now, on the opposite side of the path, facing the sea, you’ll see a bell tower. This too holds a fascinating story. In 1590, as Toyotomi Hideyoshi marched east to attack the Hojo clan, he stopped by this temple and borrowed the bell to use in battle. He even left behind a written receipt—a rare example of wartime courtesy!
But the bell didn’t return right away. It went missing and was only rediscovered in the Hakone mountains during the mid-Edo period. It was finally returned to Seiken-ji, completing its long journey home.
On the bell tower, you’ll also find an inscription: Keiyō Sekai, meaning "A World of Precious Gems." This poetic phrase was a gift from the Korean envoys—symbolizing peace and friendship between Japan and Korea. Isn’t that beautiful?
As we walk these temple grounds, we’re not just seeing buildings and trees—we’re walking through centuries of living history.
And did you know? Okitsu itself was once a luxurious villa retreat during the Meiji and Taisho eras. High-ranking nobles and even royalty chose this peaceful coast as a getaway. One of the most famous villas belonged to Prince Saionji Kinmochi, and parts of these historic retreats still exist today, including the beautifully preserved Mizuguchi-ya Gallery.
Why Okitsu? Easy access from Tokyo, warm weather year-round, and this breathtaking view—it all made for the perfect escape from the city.
So as you stroll through Seiken-ji and the Okitsu coast, remember: you’re not just sightseeing. You’re stepping into a story. I hope you enjoy every chapter.
【放送内容のテキスト文面】
さあ、今週も興津の清見寺をじっくり見ていきましょう。
前回の放送では、朝鮮通信使の方々との交流の記録であったり、武田家の時代から徳川家の時代まで水軍の中心となって活躍していた、向井氏の供養塔のお話をしていただきました。
椿原さん今回は、この供養塔の周辺からスタートしていきましょうか。
はい。
今、五百羅漢が見えますけども、まず初めに本堂をですね、左側に本堂はありますけども、その本堂の手前にものすごく大きな、建物がります。
これ、本堂が作られた後にですね、徳川家康の娘さんが寄進をした玄関になります。
大きいですよね。
ものすごく格式の高い玄関が作られてますよね。
とっても立派な玄関が見えます。
徳川家康の娘さんが寄贈して作られたものだったんですね。
この本殿の入口としてふさわしい、とても風格のある玄関だと思います。
それから今、五百羅漢のとこなんですけども、一度、山門の方に戻って、また左の庫裏(くり)の方に歩いていきますね。
庫裏(くり)の方に歩いて、ちょっとこれ30メーターぐらいやっぱり道があるんですけども、その左側に由緒正しい梅の木の枝が這っているようになっています。
あの竜のように、龍が付したようにということで、臥龍梅っていうふうに呼んだりとかしてるんですけども。
この梅の木ですね。
与謝野晶子も確かここで、はい短歌を読んでいたと思うんですけども。
どうでしょう、男の方だったら、清水のお酒として有名な臥龍梅っていう、日本酒をご存知かと思うんですけども。
その臥龍梅の名前になったのが、この清見寺のの梅の木になります。
これが臥龍梅ですか。
清水では有名な地酒ですね。
私も飲んだことがあります。
お酒の名前の元となった梅の木は、ここ、清見寺にあったんですね。
知りませんでした。
言われてみると、確かに名前の通り、龍が付したような形に見えますね。
それから、その臥龍梅の反対側ですね、海側なんですけども、こちらも大きな、なんていうんでしょう、塔のような建物が建っておりますけども。
はい、鐘楼ですね。鐘つき堂になります。
中はね、今、一般の方入ることができないんですけども、鐘が上から吊り下がっていますよね。
実は、この鐘も由緒正しいものですね。
これまた立派なとこですね。
確かに小さな丸みたいな部分から鐘の一部が見えました。
椿原さん、この鐘にも何か歴史があるんですか。
いや、先ほども登場してもらいました豊臣秀吉なんですけども、朝鮮半島に出兵をする前ですね、1590年に小田原の北条氏を攻めております。
その攻めるときに、この東海道をずっと進軍をしていきますね。
この清見寺に寄ったときに、この鐘楼を見て、戦のときに、この鐘楼を戦のための陣鐘っていうのかな、戦に使う鐘として使うために、持っていきました。
戦で使うために持っていっちゃったんですか。
確かに遠くまで届くような音が出そうな立派な鐘ではありますが。
こんなに大きなものを持ち運んでいたんですね。
すごいですよね、ちゃんとその、持っていったときの借用書、それも清見寺に残っています。
なぜ借用書を残していったかというと、当時、駿河国っていうのは、徳川家康の領国でしたので、そこのお寺にある鐘を重用するにしてもやっぱり借用書ですか、それを残していかないと、徳川家に対しても仁義が切れないということで、そういうことを行っていったということですね。
ちなみに戦が終わった後すぐに、その鐘が戻ってきたかというと、そういうことではなくて、江戸時代の中くらいになって、箱根の山中から見つけられて、こちらのお寺に戻ってきた。ということだと思います。
戦が終わった後に返してもらえず、長い間行方不明だったんですか。
借りると次はしっかり仁義を通していたのに、そこは適当なんですね。
それとですね、もう一つですねこの鐘楼にですね、掛板って言いますかね、板がかかっているんですけども、これ、瓊瑶世界(けいようせかい)っていう難しい言葉が書かれているんですけども、これも朝鮮通信使の方が記した言葉を、板に刻んで、ここに掲げております。
瓊瑶世界というのは、二つの綺麗な玉、日本と朝鮮国ですよね。
その二つの玉が仲良く友好を込めた、友好をするような、素晴らしく綺麗な世界という意味です。
その思いがね、伝わるような言葉と、掛板だと思います。
いたるところにそういうものが掲げられておりますので、
瓊瑶世界、素敵な言葉ですね。
当時の朝鮮国と日本との友好の記録が、こんなところにもあったんですね。
何も知らずにこれを見ていたら、きっとただ文字が書いてあるなくらいにしか感じないと思うのですが、朝鮮から来た通信使の方との交流の証だということを知った今では、朝鮮の方々とどのような会話をし、どのような思いでこれを刻んだのだろうと、いろいろ想像しながら見られて楽しいですね。
この清見寺では、いろいろなところで、本当に歴史的に価値のあるものをたくさん見ることができ、その歴史を知ることで、より楽しみ方が広まりますね。
そうですね。
この清見寺さんは文化財の宝庫ですし、皇室を始め、将軍家も来てますし、それから、興津自体がですね、明治時代以降、皇族もいらっしゃいましたし、経済界、政界の重鎮であったりした人たちも、興津に来て、それから別荘地として繁栄をしていたものですから、いろんな方たちの足跡が興津には残ってます。
そうなんですか。
興津って、別荘地だったんですか。
現代だと、興津に別荘を持っているという話をほとんど聞いたことがなかったので、それは驚きです。
当時、興津の地域が別荘地だった頃の跡はまだ残ってたりするんですか?
11人~12人の方々が別荘を作っていたんですけども、西園寺公望さんの別荘、坐漁荘、今、本物は明治村に行ってるんですけど、全く同じものが復元されて、皆さん見ることできますよね。
それから、水口屋と言いまして、江戸時代の興津の職場の脇本陣のお宅なんですけども、そこがずっと高級旅館として残し、残っていまして。
その歴史を伝えるための水口屋ギャラリーというものも見学できるようになってます。
別荘地についてなんですけども、井上薫さんの別荘の跡があったりとか、東京のいろんな政財界の方が住んでましたよね。
興津っていうのは、東京から、当時5時間50分で、確か東海道線でこれる場所でした。
ですので、1日で行けないこともないっていうことで、西園寺公望さん他、いろんな方が別荘を構えた。
それから、清水を含めて、雪降らないですよね。
興津はさっきもみたように、ものすごく景色もいいところじゃないですか。
だから別荘を作って、皆さんゆったりと楽しんだんです。
確かに、ここからの景色の良さだったり、東海道でのアクセスの良さだったり、雪の降らない比較的暖かい気候だったりというのは、別荘地に適していますね。
当時インターネットなど拡散する手段がない中で、どうして興津は別荘地として選ばれるようになったのでしょうか。
やっぱり口コミで広まっていったっていうことなんでしょうか。
それもそうです。明治の頃はそうですよね。
やっぱり一番最初は、水口屋さんに行くとわかるんですけども、資料も残ってるんです。
こちらのですね、あの清見寺に、大正天皇がまだ皇太子だった頃ですよね。
清見寺に泊まられて、清美潟の前で海水浴をやって、何回か来ていたので、それで、天皇家が来るくらいだから、いい場所だっていいところだっていうのはわかったんですね。
それで、政財界の方たちが一つのステータスですよね。別荘を持ったということです。
当時、皇太子であった大正天皇が泊まりに来たこともあったんですか。
皇族が何度も訪れて休養する場所だったというだけで価値がつきそうですね。
当時は興津に別荘を持つことがステータスだったとは、今では想像できないですが。
そう、気づいたら、清見寺の中を一通り見終わってしまいましたね。
清見寺には、武田家の水軍の供養塔があったり、豊臣の軍んが持って行った鐘があったり、徳川家康の娘さんが寄進した玄関であったり、いろいろな時代の跡が残されていますね。
海が見渡せる綺麗な景色だけでなく、歴史的なものまで見どころたくさんです。
まだ、清見寺に行ったことがないという方もいらっしゃるかもしれません。
行ったことがある方でも、この清見寺についての放送を聞いて、改めて細かいところまで見てみたいと思った方もいるのではないでしょうか。
全国でも珍しい、歴史的に貴重なものが残っている清見寺にぜひ足を運んでみてくださいね。わった人たちを敬う気持ちにあふれたものが、たくさんあるなと感じました。