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魅力ある清水を創る会
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ぶらっと清水【第24回】伏見さんと清見寺(1) 天皇家と徳川家の位牌!?本堂の中で見られるものを紹介 / A Stroll Through Seiken-ji with Fushimi, Vol. 1: Imperial and Tokugawa Memorial Tablets—Highlights of the Main Hall

  • 執筆者の写真: 山内 真一
    山内 真一
  • 8月2日
  • 読了時間: 16分
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<今日のお散歩まとめ>


  • 今回の放送は清水区興津の清見寺からスタート

  • 案内役は清見寺でボランティアガイドを務める伏見さん

  • 清見寺は主に江戸時代に建てられた木造建築で、現在の本堂は文政年間に建立された

  • 本堂には天皇の位牌(菊の御紋)と徳川将軍家歴代14代の位牌(三つ葉葵の御紋)が安置されている

  • 清見寺の起源は約1300年前、天武天皇の勅願で設けられた関所とお堂が始まり

  • 「清見関」が寺の名前の由来であり、「清見関寺」を経て「清見寺」と呼ばれるようになった

  • 明治天皇・大正天皇や現天皇陛下も清見寺を訪れた歴史がある

  • 本堂内には、1900年の月島丸海難事故で亡くなった東京商船学校の学生らの肖像画が飾られ、供養されている

  • 朝鮮通信使が江戸時代に12回来訪し、漢詩を残した記録が「掛け板」に模写され展示されている

  • 掛け板には詩文だけでなく、三保の松原や寺の景観を称える内容も含まれており、現代語訳版も販売されている


  • This episode begins at Seiken-ji Temple in Okitsu, Shimizu Ward

  • The guide is Mr. Fushimi, a volunteer guide at the temple

  • Seiken-ji consists mainly of wooden structures built in the Edo period; the current Main Hall dates to the Bunsei era

  • The Main Hall enshrines memorial tablets of Japanese emperors (with the chrysanthemum crest) and 14 generations of Tokugawa shoguns (with the hollyhock crest)

  • The temple’s origin dates back approximately 1,300 years, established by Emperor Tenmu with a checkpoint and temple combined

  • The temple name evolved from “Kiyomigaseki” (the name of the checkpoint) to “Kiyomigasekiji” and finally to “Seiken-ji”

  • Emperors Meiji and Taisho, as well as the current emperor, have visited and offered prayers at the temple

  • Portraits of 122 victims, including 79 students from the Tokyo Mercantile Marine School, are displayed in memory of the 1900 Tsukishima Maru shipwreck

  • Korean envoys (Joseon Tongsinsa) visited 12 times during the Edo period and left Chinese poems, which are preserved on a wooden display panel

  • The poems celebrate the temple’s scenery and history; a modern annotated version is available for purchase to aid understanding


【提供】



【ぶらっと清水 第24回】


波音ちゃん 今週は、興津の清見寺からお届けします。「ぶらっと清水」では、清水に詳しい方に“意外と知らない清水”を教えていただいています。今回は、いつもの椿原さんからバトンタッチして、清見寺にとても詳しい伏見さんをお迎えしています。

伏見さん こんにちは。清見寺でボランティアガイドをしている伏見と申します。どうぞよろしくお願いいたします。皆さんが清見寺に来られたときには、私がご案内することになりますので、どうぞお見知りおきください。

波音ちゃん 伏見さん、よろしくお願いします。前回は椿原さんと一緒に、清見寺のお庭やお墓を見て回りました。今回は建物の中に入って、伏見さんと一緒に本堂をぶらっと見ていきたいと思います。さっそくですが、この本堂にはどんな特徴や歴史があるんでしょうか?

伏見さん清見寺の建物は、ほとんどが江戸時代に建てられた木造建築です。この本堂も文政年間、つまり19世紀初めに建てられたもので、立派な材木を使った堅固な造りです。天井が高いので、見上げながら進んでいただくと、建築の素晴らしさが感じられると思いますよ。

波音ちゃん 確かに歴史を感じる建築ですね。文政というと、1800年代の江戸時代後期。200年以上も前の建物が、こんなに綺麗に残っているのはすごいです。周囲にはいろいろなものが飾られていますが、特に注目すべきポイントはどこでしょうか?

伏見さん 正面に見える須弥壇(しゅみだん)ですね。ここには、非常に重要なご位牌が安置されています。まず一列目には、天皇陛下のご位牌があり、緑の頭に菊の御紋が見えます。

波音ちゃん 本当に、菊の御紋がありますね。天皇家のご位牌がここにあるなんて驚きです。

伏見さん 二列目以降には、清見寺の大スポンサーであった徳川家の歴代将軍のご位牌があります。三つ葉葵の御紋が入っていて、家康公から14代家持公まで、江戸時代に亡くなられた将軍の位牌が並んでいます。

波音ちゃん まさか天皇や将軍のご位牌が清見寺にあるとは、知らなければ見過ごしてしまいそうです。なぜここに安置されているのでしょうか?

伏見さん この寺は、天武天皇の勅願で建てられたお寺です。約1300年前、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)で政治を執っていた天皇が、東の国境としてこの地に関所「清見関」を設け、その守りとしてお堂を建てるよう命じました。それが清見寺の始まりです。

波音ちゃん ということは、当時この場所が国の東の境目だったということですね。なるほど、だから重要な地として扱われたんですね。

伏見さん 関所の名前は、天皇の宮のある地名にちなんで「清見関」とされ、そこにあるお寺ということで「清見関寺」、それが「清見寺」へと変わったとされています。

波音ちゃん なるほど、清見寺という名前の由来がよくわかりました。1300年も前から続く歴史あるお寺だったんですね。

伏見さん その後も、明治天皇、大正天皇、現在の今上天皇まで、この寺を何度も訪れています。ご健康や平和を祈るための位牌のようなものも安置されています。

咸臨丸殉難碑と肖像画

波音ちゃん 位牌の近くに、船の絵やたくさんの肖像画が飾られていますね。これは何ですか?

伏見さん 明治30年(1897年)にこの清見寺前の駿河湾で起きた大海難事故、月島丸の遭難により122人が亡くなりました。その中には東京商船学校(現・東京海洋大学)の学生79名が含まれ、国家的損失となりました。ご遺体がほとんど見つからなかったため、肖像画をここに飾り、供養しています。

波音ちゃん それは大変な事故ですね。ここで供養しているとは知りませんでした。

朝鮮通信使の漢詩

波音ちゃん 隣に文字が書かれた大きな板もありますね。これは何でしょうか?

伏見さん 江戸時代に12回派遣された朝鮮通信使が書いた漢詩です。本来は墨書きでしたが、劣化を防ぐために模写し、「掛け板」として展示しています。

波音ちゃん 内容が難しそうですが、何が書かれているんですか?

伏見さん 清見寺の美しさ、三保の松原の景色、通信使の苦労、先輩への敬意など、さまざまな内容が詠まれています。行書に直し、意味や読みも解説された資料が販売されていますので、興味があればぜひどうぞ。

波音ちゃん なるほど、内容を知ることでより深く歴史を学べそうですね。

波音ちゃん 今回は清見寺の本堂を中心に、貴重なご位牌や肖像画、漢詩などを伏見さんにご案内いただきました。とても勉強になりました。来週も引き続き、伏見さんと一緒に清見寺をぶらっとしていきますので、お楽しみに!

伏見さん ありがとうございました。来週もよろしくお願いします。




【観光案内ガイド風】

ようこそ!清水へ!

今回ご案内するのは、静岡市清水区興津にある「清見寺」です。ここは、およそ1300年の歴史を持つ由緒あるお寺で、多くの文化財と歴史的背景を持っています。では、ゆっくりと清見寺の本堂を歩きながら、見どころをご紹介していきましょう。

本堂は江戸時代後期、文政年間(19世紀初頭)に建てられた木造建築です。堅牢な造りで、使われている材木も非常に立派なものです。高い天井や梁の構造を見上げながら、当時の建築技術の粋を感じていただけます。

正面にあるのは「須弥壇」と呼ばれる祭壇です。ここには、驚くべき人物たちのご位牌が安置されています。一列目には、天皇陛下の位牌が並び、菊の御紋があしらわれています。そしてその後方には、江戸時代に清見寺を庇護した徳川将軍家の位牌が14代分並んでいます。東照大権現・徳川家康公の位牌もその中に含まれています。

なぜ、こうした方々の位牌がここにあるのかというと、清見寺は天武天皇の命によって建てられた寺だからです。当時、清見寺のあたりは日本の東端に位置し、国家の境界として非常に重要な場所でした。天皇の命令で関所とともにお堂が設けられ、これが後に「清見関寺」、そして「清見寺」と呼ばれるようになったのです。

そのため、皇室や徳川家との深いつながりがあり、近代においても明治・大正天皇、そして現在の天皇陛下も祈願のため訪れておられます。

さらに本堂には、もうひとつ特別な空間があります。入口付近には「咸臨丸殉難碑」と、明治30年(1900年)に駿河湾で起きた月島丸の海難事故で亡くなった122名の肖像画が掲げられています。多くが東京商船学校の学生で、遺体も回収されなかったため、この清見寺で供養されているのです。

もうひとつ見逃せないのが、漢詩が描かれた掛け板です。これは、江戸時代に清見寺を訪れた朝鮮通信使たちが残した詩を、劣化防止のために板に模写したものです。原文は墨書きで書かれたもので、今では読みやすい行書版や現代語訳も販売されています。

このように清見寺は、建築、歴史、外交、そして祈りの文化が交錯する場所です。ぜひゆっくりと歩きながら、その静かな歴史の重みを感じてみてください。



Welcome to Shimizu!

Today, we will be exploring Seiken-ji Temple, located in Okitsu, Shimizu Ward of Shizuoka City. This historic temple dates back over 1,300 years and is rich with cultural and historical significance. Let’s take a leisurely stroll through the Main Hall while I guide you through its highlights.

The Main Hall was constructed in the late Edo period, during the early 19th century, specifically in the Bunsei era. It’s a solid wooden structure built with impressive timbers. As you look up at the high ceilings and architectural details, you’ll notice the remarkable craftsmanship of that time.

At the front of the hall, you’ll see a structure known as the Shumidan, or Buddhist altar. What’s extraordinary here is the array of memorial tablets enshrined on it. In the first row, you’ll find tablets dedicated to Japanese emperors, marked with the chrysanthemum crest. Behind them are tablets for 14 successive shoguns from the Tokugawa family, including one for Tokugawa Ieyasu himself. These are adorned with the triple hollyhock crest, the symbol of the Tokugawa clan.

Why are such significant figures enshrined here? Seiken-ji was originally founded by imperial command from Emperor Tenmu, around 1,300 years ago. At that time, this area marked the eastern boundary of the Japanese empire, and a checkpoint called Kiyomi Barrier was established here for national defense. Alongside it, a temple was built by the emperor’s order—what later became Seiken-ji. This deep historical connection explains the presence of both imperial and shogunal memorials.

In more recent history, both Emperor Meiji and Emperor Taisho visited this temple multiple times. Even the current emperor has offered prayers here, using a symbolic memorial tablet for health, peace, longevity, and prosperity.

Another notable site inside the Main Hall is a series of portraits near the entrance. These are tributes to the victims of the 1900 maritime tragedy of the Tsukishima Maru, which sank in nearby Suruga Bay. A total of 122 lives were lost, including 79 students from the Tokyo Mercantile Marine School. With most of the bodies never recovered, the temple became their place of memorial.

Before you leave the hall, don’t miss the wooden display panels inscribed with classical Chinese poetry (kanshi). These were written by Korean envoys known as the Joseon Tongsinsa, who visited the temple twelve times during the Edo period. The original ink manuscripts were later reproduced on wood to preserve them, allowing all visitors to appreciate the poetry in one place. Transcriptions and modern translations are available for those interested.

Seiken-ji is a place where architecture, political history, international diplomacy, and spiritual culture all come together. As you walk through the temple grounds, take time to absorb the peaceful atmosphere and the deep layers of history it holds.



【放送内容のテキスト文面】


さあ、今週もフェルケール博物館の館内をぶらっと見ていきましょう。


前回缶詰記念館の中で、缶詰の歴史やその頃使われていたらラベルを見ながら、椿原さんに解説していただきました。


今回も引き続き、缶詰記念館の展示物についてと、この缶詰記念館の周りにある展示物の注目ポイントなどを教えていただければと思います椿原さん。


本日もよろしくお願いします。



入口の方に戻りますけども、ここにですね、わかりますか?


小さいんで、ちょっと気がつかないんですけども、対米輸出向け、最初のラベル(複製)ってなってますけども、本物も博物館で収蔵してるんでですけども、日に焼けて薄くなっちゃうものですから、これはレプリカを紹介してるんですけども、今2枚だけ残ってます。昭和5年にアメリカに向けて、輸出を始めたときの一番最初の缶詰ラベルになります。


私も知らなかったんですけども、マグロの缶詰だけかと思ったら、3本線のはいったカツオの缶詰のラベルも一緒に残ってました。

静岡県にもそれが今残ってませんので、博物館にだけあるんですけども。

富士丸ブランドですね、この富士丸というのは、静岡県の持っていた練習船の名前が藤丸という名前です。その名前を取って富士丸ブランドということにしたそうですね。


このラベルから静岡の缶詰が始まったということになります。


静岡で昭和4年に開発された缶詰は、翌年にはアメリカへ輸出されていたんですよね。


これがその当時使われていた一番最初のラベルですか。


昭和を感じるレトロなデザインでおしゃれですね。


展示されているのはレプリカですが、このフェルケール博物館でしか見られない、とても貴重な資料ですね。


ラベルをよく見てみると、静岡県と書かれていますが、民間企業が自主的に缶詰を始めたというよりも、県の事業として缶詰開発をして、海外へ輸出したのが始まりということなんでしょうか。


この富士丸ブランドのものは完成品を売ったというよりも、試験的に販売をしたっていいますね。


そして、大変に好評だった。

味も良かったし、金額も安かったっていうことで、すぐにこれは経営がうまくいくということで、清水食品株式会社が設立をして、海外輸出を始めた。


さすが日本っていうか、静岡クオリティですね。

安くて美味しいとなれば海外でも需要があって、この缶詰事業は大成功という感じですかね。


ですけども、やっぱりもう2年後にはアメリカと日本の中で、貿易摩擦が起こってしまったっていうんですね。

当時のね、やっぱりあの状況考えると、あの戦争にも入ってくるじゃないですか。

だから日本は外貨が欲しいし、アメリカはもう中国に進出した日本を警戒をしていますよね。

そして、世界恐慌の後、これでしょ。


ですので、アメリカとすると、はい、アメリカの缶詰の業者を守らなきゃならないっていうのもありましたでしょうし、日本の場合には外貨を獲得していきたい。それから生活を安定していきたい。軍事物資であるっていうことも含めて、そういう結果になったということですよね。


そうなんですか。最初から大成功というわけではなかったんですか。

確かに時代背景を考えると、仲良く貿易ということができるような時代ではなさそうですね。


でも、海外での需要自体はあったので、戦争が終わって平和になった時代に、また輸出ができるようになって、今、海外のスーパーでも日本の缶詰が当たり前に並んでいるので、結果的に大成功っていうことですね。


ちなみに、ちょっと注意して見ていただきたいのが、この看板といいますかね、年表とか歴史を紹介したものなんですけども、雰囲気を残すために、わざと手書きのものを残しております。


今の印刷したものだと味気ないものですからね。


缶詰記念館はやっぱり手書きのものがあった方がいいなということで、手書きのものを残してます。


確かに言われてみれば、展示されている説明の資料は、手書きのものですね。


印刷されたものの方が見た目はいいですが、やはり手書きであった方が、人の思いや温かみというものが感じられますし、何よりこのレトロな建物と合っていますね。


その空間の雰囲気を踏まえて、展示の見せ方もちゃんと考えられているんですね。


では、もっと展示されている缶詰を見ていきましょうか。

あ!ここら辺にあるのは比較的最近の缶詰でしょうか。

面白そうなものが並んでいますね。


焼き鳥の缶詰とか、それから女性が喜ぶのはこのプリンゼですよね。


今はなくなっちゃったんじゃないすかねもう、プリンゼ、みんなこのプリンゼに反応しますよね。

あのプリンとゼリーのちょうど中間のようなものなんですけれども。


プリンゼ、初めて聞きました。

何かフルーツと一緒に盛られている写真が載っていて、冷やして食べる通りそうですね。

それからこの焼き鳥もあれですよね。


当時有名なデザイナーにお願いをして、書いてもらって。

ちょうどこの焼き鳥も年配の方はCMで「焼き焼き」って言ったのを覚えている人いると思いますね。


あの、この缶詰が本当に隆盛になったことって、あのテレビマスコミでCMを流すっていうのは、爆発的に流行したっていいますかね、その時期になるんですよね。


ですので映画館で缶詰載せCMを見たとか、テレビでCMを見たということで、頭の中に刷り込まれている人がものすごく多いんですよね。


ですので、そういう方はこの近代の缶詰の本物を見ると、あの頃のだっていうことを歴史がよみがえるって言いますかね、思わずニヤッと笑ってしまうっていうのはよくあります。


焼き焼き!今でもCMで使われていますね。


ここに並んでいる中で、私がテレビなどで見たことがある商品は多くはないですが、この焼き鳥缶詰みたいに、見ただけでそのCMに使われていたメロディーとか思い出しちゃいますね。

はい、缶詰記念館の中を一通り見終わってしまいました。


では、この建物を出て、周辺の展示物についても見ていきましょう。



それで今、缶詰記念館と常設展示の本館の間にですね、石碑が1個置かれてます。


意外と気がつかないんですけどもすごく重要なもので、最低賃金全国第1号記念碑というふうに呼んでいます。


この缶詰産業というのは、周囲の人たちの生活の安定も考えて、起業をされています。


ですので、昭和31年に公ではなくて、缶詰の企業間で、社員の最低賃金を設定をしたそうです。

それが前提となって、4年後の昭和35年に国会で最低賃金法が成立をしています。


ええ!最低賃金って、静岡の缶詰残業から始まっていたんですか、

地域の雇用機会を生み出す目的もあって、誰でも働きやすいように、缶詰ラベルも貼り付けやすいデザインになって行ったということですが、従業員の生活の安定を図るために最低賃金という設定も、この時代からしていたとは・・・・!


国の政策に先んじるものであったということで、それを記念して社団法人の静岡缶詰協会の入口に設置をされていました。


今の缶詰協会がビルの中に入りましたので、この缶詰記念館と一緒に保存をするのがいいだろうということで、こちらに持ってきて、皆さんに見ていただいております。

ですので、表面には女性のレリーフがはめ込まれているというのも意味があることなんですね。


全国で初めて最低賃金を設定した記念の、貴重な石碑がフェルケール博物館にあったなんて驚きです。


現在でも、国会で最低賃金とか、女性の雇用機会とか議論されていますが、静岡ではそんなに前から、それを問題視して、解決に取り組んでいたんですね。


何気なく歩いていたら見落としてしまいそうですが、これは清水に住む人がっていうか、静岡に住む人にはぜひ知っておいてもらいたいことですね。


あの元々ですね、港湾に関係する人たちっていうのは、そういう意識が強いんですけども。

というのも、いろいろ荷物を運んで売り買いとかしますよね。

そうしたときに1回海難事故があると潰れてしまいますよね。


ですので、相互扶助っていいますかね、そういう意識というのは、公安とか船の関係者に元々非常に強く持っていたんですよね。


ですからその表れとして、例えば、今の東京海上火災とか保険の会社とかあるじゃないですか。

あれわかるように廻船問屋とか、海に関係する人たちが作った保険会社っていうのは結構多いんですよ。


はい。

だからそういう、何でしょう、地域であったりとか、お互いに助け合うとかっていう考え方っていう考え方は、港湾に関係する人たちの中には、昔から根底にそういったものがあったっていうのはよくわかりますよね。


だからこの博物館自体も、そういった考え方っていうのを伝えるという意味もやっぱりありますので。はい。


確かに、普通の保険会社さんなのに、海に関係した名前がついているのは何でだろうと思っていましたが、海や川などで仕事をしていた人は、事故など、万が一に対する危機感が強くて、そこから保障とか保険とかという考えが生まれていたんですね。


港町で何かあっても助け合うっていうことが当たり前だった清水だからこそ、こういった最低賃金や女性の雇用機会といったことにいち早く気づいて、改善するために動いてきたんですね。


フェルケール博物館では、物流のことだけでなく、そんな社会問題への清水での取り組みなども知ることができるんですね。


かなりじっくり見て回ると奥が深いです。


気づいたらあっという間に時間が来てしまいました。


椿原さんありがとうございました。


5週にわたってフェルケール博物館をじっくり解説していただきましたが、来週から興津の清見寺さんで、ぶらっとしたいと思います。

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