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魅力ある清水を創る会
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ぶらっと清水【第15回】武田信玄が清水港の重要度をさらに上げた!? / Did Shingen Takeda Further Boost the Importance of Shimizu Port?!

  • 執筆者の写真: 山内 真一
    山内 真一
  • 4月27日
  • 読了時間: 13分




<今日のお散歩まとめ>


  • 今日の散歩はフェルケール博物館からスタート

  • 今川家の時代に清水港は廻船問屋と水軍で発展

  • 永禄11年、武田信玄が今川氏真を攻め、今川家が滅亡し武田家が駿河を支配

  • 武田家は今川家の水軍(岡部氏、伊丹氏、間宮氏)を取り込み新たな水軍を編成

  • 巴川の河口近くに江尻城を築き、清水港を整備

  • 武田信玄は伊勢国の小浜氏・向井氏をスカウトし、伊勢と清水を結ぶ海上航路を開設

  • 当時は太平洋航路が未整備で、伊勢と清水を結ぶことが京都への物流確保に重要だった

  • 遺跡からは瀬戸の土器が多く発見され、伊勢経由で京都へ運ばれていた

  • 清水からは紙、中国陶磁器、刀剣など様々な品が運ばれていた

  • 船による大量輸送の重要性が高まり、清水港が物流と文化交流の拠点となった

  • 武田信玄の先見の明で清水港の重要度がさらに高まった



  • Today's tour started from the Verkehr Museum

  • During the Imagawa period, Shimizu Port developed with shipping merchants and a navy

  • In 1568, Takeda Shingen attacked Imagawa Ujizane, leading to the fall of the Imagawa Clan and Takeda's control over Suruga

  • Takeda incorporated the Imagawa navy (Okabe, Itami, Mamiya clans) and formed a new naval force

  • Ejiri Castle was built near the mouth of the Tomoe River, and Shimizu Port was developed

  • Takeda recruited the Obama and Mukai naval families from Ise Province to establish a maritime route between Ise and Shimizu

  • At that time, the Pacific maritime route from Osaka to Edo was not fully developed, making the Ise-Shimizu connection crucial for logistics to Kyoto

  • Archaeological finds revealed many Seto pottery pieces transported via Ise to Kyoto

  • Shimizu exported local specialties like Suruga paper, Chinese ceramics, and swords

  • The importance of ship-based mass transport elevated the significance of ports

  • Takeda Shingen's strategic foresight further increased Shimizu Port’s role as a hub for logistics and cultural exchange


【提供】



【ぶらっと清水 第15回】


波音ちゃん「今日のお散歩は、フェルケール博物館からスタートです!先週は今川氏と総廻船問屋のお話が出ましたね。今川家の時代から清水港が発展してきたと学びましたが、その後はどんな歴史があったんでしょうか?」


椿原さん「はい。まず永禄11年、武田信玄が西に向かうため、今川氏真を攻めました。氏真は掛川城に逃げ、駿河国は武田家の領地になったんです。つまり、今川家から武田家へ支配が変わったんですね。」


波音ちゃん「支配者が変わって、清水港のまわりはどう変わったんですか?」


椿原さん「武田家は、今川家の水軍を取り入れました。岡部氏、伊丹氏、そして元北条水軍の間宮氏なんかですね。そして、巴川の河口近くに『江尻城』を築き、そこを中心に駿府の港、つまり清水港を整備したんです。」


波音ちゃん「なるほど!今川家の水軍だった人たちも、武田家に取り込まれたんですね。」


椿原さん「そのとおり。それに加えて、信玄は伊勢(今の三重県)の小浜氏と向井氏という水軍もスカウトしました。これで、伊勢から清水までの航路を確保したわけです。」


波音ちゃん「わぁ、伊勢と清水が繋がったんですね!普段は水軍だけど、平時は廻船問屋として商売もしてたってことですよね?」


椿原さん「そうなんです。さらに当時は、伊勢から京都まで物を運ぶ陸路しかなかった時代。伊勢と海で繋がることで、清水から京都への物資輸送がとてもスムーズになったんですよ。」


波音ちゃん「なるほど!海路を使えば、陸路よりずっと速くて楽なんですね。」


椿原さん「そう。つまり、武田信玄は清水港を拠点に、京都への物流ルートを海と陸の両方で押さえたということです。」


波音ちゃん「清水の港の重要度がぐっと上がったわけですね!ところで、京都に運んでいたものって何が多かったんですか?」


椿原さん「いろいろありますが、瀬戸物(焼き物)が代表的ですね。実は伊勢には窯がなかったんですよ。だから瀬戸で作ったものを伊勢経由で京都に運んでいたんです。」


波音ちゃん「へぇ~!伊勢の兵士=素甕(すがめ)っていうエピソード、面白いですね!窯がないから、粗末な焼き物しかないってバカにされてたんですね。」


椿原さん「そうそう。他にも、駿河の特産品である紙や、中国の陶磁器、刀剣なんかも流通していました。伊勢と清水を結ぶことは、ただの航路確保以上に大きな意味があったんですよ。」


波音ちゃん「京都が日本の中心だった時代、そこにいろんなものが集まって、また各地へ送り出されていたんですね。その流れの起点に清水港があったなんて、ワクワクします!」


椿原さん「はい。物流の中心はやっぱり『船』。たくさんの物資を運ぶには、海運が欠かせなかったんです。だから港の歴史を知ることは、経済や文化を知ることにも繋がるんですよ。」


波音ちゃん「うんうん。清水港が歴史の中でどう重要だったか、すごくよくわかりました!今日も楽しいお話、ありがとうございました!」



【観光案内ガイド風】

ようこそ!清水へ!

今日のお散歩は、ここ、フェルケール博物館からスタートです。 今川家の時代、清水港は廻船問屋や水軍とともに発展していったのですが、その後の歴史もとても興味深いんです。

永禄11年、武田信玄が西に向かうために今川氏真を攻め、氏真は掛川城へ逃げました。そして駿河の国は武田家のものとなり、今川家は滅亡しました。支配者が今川から武田へと変わったことで、清水港を取り巻く環境も大きく変わっていきます。

武田家は今川家の水軍を引き継ぎ、岡部氏、伊丹氏、元北条水軍の間宮氏などを取り込み、新たな水軍を編成しました。さらに、巴川の河口近くに江尻城を築き、駿河の中心拠点として清水港を整備したんです。

ここで武田信玄がもうひとつ大きな策を打ちました。伊勢国(三重県)にいた小浜氏と向井氏、ふたつの水軍をスカウトしてきたんですね。これにより、清水港と伊勢を結ぶ海上航路が開かれ、商業ルートが拡大しました。

当時、大阪や堺から江戸へ向かう太平洋海運はまだ整備されていませんでした。伊勢と清水を海で繋ぐことは、京都までの物流を確保するために非常に重要だったんです。

さらに興味深いのは、当時京都に運ばれていた品々です。遺跡からは、瀬戸の土器が多く見つかっています。伊勢は物流の要所でしたが、実は窯がなかったため、瀬戸で作られた陶器が伊勢経由で京都に運ばれていたんですよ。

また、清水からは駿河の名産である紙や、さらには中国の陶磁器、刀剣など、多種多様な品々が運ばれていました。物資の大量輸送には、やはり船が最適。だからこそ港は重要な存在だったんですね。

このようにして、清水港はますます重要な拠点となり、武田信玄の先見の明によって、物流と文化の交流がさらに広がっていったのです。

皆さんもぜひ、今日の散策で、清水港が育んだ歴史と文化の深みを感じてみてくださいね!



Welcome to Shimizu!

Today, we'll start our walk here at the Verkehr Museum.

During the Imagawa period, Shimizu Port developed alongside shipping merchants and a navy. But what happened after that is equally fascinating.

In 1568, Takeda Shingen attacked Imagawa Ujizane in his westward campaign.Ujizane fled to Kakegawa Castle, and Suruga Province fell into Takeda hands, leading to the downfall of the Imagawa Clan.With this shift in power, the environment around Shimizu Port also began to change dramatically.

Takeda inherited the Imagawa navy, incorporating commanders like the Okabe, Itami, and former Hojo navy member Mamiya, creating a new Takeda navy.He also built Ejiri Castle near the mouth of the Tomoe River, strengthening Shimizu Port as a key gateway to the capital of Suruga.

But Shingen went even further.He recruited two powerful naval families from Ise Province (modern-day Mie), the Obama and Mukai clans, securing maritime routes between Ise and Shimizu.

At that time, there was no well-developed Pacific shipping route from Osaka to Edo.Connecting Ise and Shimizu by sea allowed direct, faster transportation of goods toward Kyoto, making it a critical logistical move.

Excavations reveal that many Seto pottery artifacts from that era ended up in Kyoto, highlighting how Ise served as a major logistics hub despite lacking kilns of its own.Goods such as paper from Suruga, Chinese ceramics, swords, and many others traveled through these routes.

Shipping by sea enabled mass transport far more efficiently than overland travel. That's why ports were so vital.

Through Takeda Shingen’s strategic foresight, Shimizu Port rose in importance, linking cultures, goods, and people more strongly than ever.

As you stroll around today, please enjoy feeling the deep connections of history and culture nurtured right here at Shimizu Port!



【放送内容のテキスト文面】


おっはの~ん。

清水港擬人化キャラクター七海波音です。

第一回 ぶらっと清水、始まります。

清水のいろんな場所をぶらっと歩きながら、素敵な魅力を発見して、お伝えしていきます。


この番組は、

清水をみんなで盛り上げたい、

するが企画観光局、

魅力ある清水をつくる会、

鈴与グループ、

清水港振興の提供でお送りいたします。


今日のお散歩のスタートは、フェルケール博物館からスタートです。


先週の総廻船問屋のお話の中で、今川氏のお話がよく出てきましたよね。


今川家の時代から、廻船問屋や水軍とともに、清水港が発展していったということを学びましたが、その後の時代にはどのようなことが起こったのでしょうか。


まずですね、永禄11年に武田信玄が京都へ向かうっていうかな、西に向かおうということで、今川氏の氏真を攻めました。今川氏真は掛川城に逃げていって、駿河の国は武田家が領有するようになっていきます。今川家滅亡しますね。


この地域を治めていた今川家から、今度は武田家の統治に変わったんですね。

武田家が治めるようになって、清水港を取り巻く環境はどのように変化していったんですか。


はい。

武田家は今川家を手に入れると、今川家の水軍、先ほどもちょっと、この前もね、ちょっと話をしましたけども、今川水軍だと、岡部氏であったりとか、伊丹氏であったりとか、それから元北条水軍の間宮氏であったりとかね、そういったものを取り入れて、武田氏の水軍を作りました。


その本拠地を駿河湾の中に置いたんですけども、港もそうですけども、お城として巴川の河口に近いところに江尻城を作り、そこを駿府の、駿河の首都として考えたっていうことですね。


今川氏の水軍だった岡部氏や伊丹氏も取り込んで新たな水軍を武田氏は作っていたんですか。

そのときの水軍の中心は、巴川河口があった江尻の辺りということですね。


はい。清水の港を江尻城の港といいますか、駿府の港として整備をしていくわけなんですけども、そのときに武田信玄が打ったもう一つの手ですね、岡部氏、今川家の水軍だったんですけども、その中の一人ですね、甲斐の国の名門で、土屋という家が断絶していたものですから、岡部氏の中の一人を土屋家を継がせています。

それで、土屋という名前の水軍になってるんですけども、その土屋氏に命じて、伊勢、今の三重県にいた水軍、小浜氏と、向井氏という二つのですね水軍の家があるんですけども、それをスカウトしてきました。


武田氏の当地に変わったのをきっかけに、甲斐の国へと水軍の輪が広がっていったということですね。

ところで、なぜ武田家の領地とは少し離れている伊勢の国の小浜氏や向井氏をスカウトしに行ったのでしょうか。


そのスカウトされた小浜と向井の二つの水軍が伊勢から駿河の国に来て、武田家の水軍の一員になりました。

ということは、水軍の一員になったんですけども、こういう水軍というのは平時、普通のときですね、廻船問屋として仕事をしていましたので、武田家は小浜氏と向井氏を引き入れることによって、伊勢の国から清水までの航路、海を使った商売の道を手に入れたということになります。


そっかあ、水軍が兵力であるけれど、普段は廻船問屋をしてますもんね。

この小浜氏や向井氏を仲間に入れることによって、今までになかった遠い地域、伊勢との繋がりもできてくるんですね。


もう一つ重要なのは、当時ですね、戦国時代というのは、まだ大阪・堺から紀伊半島を回って、江戸まで回るような太平洋海運っていうのはあまり整備されてないんですよね。


ですので、伊勢の国のいろんな物品でですとか産物を京都まで運ぶには船じゃなくて、今の津の辺りから、伊勢と伊賀の山を通って、京都まで物を運んでたんですよね。


ですから、伊勢と清水を結ぶっていうことは、清水から京都までの物流の道を手に入れたということになります。

重要な政策だったっていうことですね。


なるほど!当時の都、京都から東へ物を運ぶ際には、伊勢からの陸路しかなかったんですね。

つまり、伊勢と海路で繋がりがあれば、清水からずっと陸路で運ぶより、かなり労力と時間を削減できるということですね。


はい。

武田信玄は、今川家の水軍を手に入れて、それで新たに伊勢の水軍を手に入れて、で、京都までの陸の道、それとともに京都までの海の道も手に入れたということになります。


ですので、清水の港っていういうのは、清水地域っていうのは、武田家になって、ますます重要な意味を持ったということになります。


武田家のおかげで、清水の港の重要度が上がったんですね。


ここでちょっとした疑問なんですが、海路や陸路を使って京都へ物を運んでいたということですが、主にどんなものが運ばれていたんでしょうか。

やっぱりね、年貢米とか、こっちの名産品であるお茶などが多かったんですか。


そうですね。


まず、当時の遺跡を掘ったときに出てきてるもの、有機物なんかはね、なかなか出てこないですけども、一般的に出てきている土器を見てみると、京都から出てきてるのは面白いのはあれですよね。

例えば、京都から、瀬戸の土器はいっぱい出てきてますよね。


土器ですか。


それは清水港で取り扱われていたものの中にはなかったものですよね。

伊勢を通って運ぶ荷物の中に土器が含まれるようになったことについて、どんな歴史があるんですか。


古文書を見てみると戦国時代はもっと前かな、平家時代に、平清盛が馬鹿にされた言葉があるんですよね。


手塚治虫さんの火の鳥にも出てくるんですけども「伊勢の兵士は素甕なり」いうふうにして踊りを踊って馬鹿にされたっていうんですね。

清盛の出身は伊勢の辺りなんですけども、伊勢の兵士の兵士というのは、お酒を入れるとっくりのこと兵士って言うんです。

だからあの硬い焼き物ではなくて、柔らかい粗末なカメだというふうにして馬鹿にしたっていうのですね。

よくよく考えてみると、伊勢には窯がないんですよ。

窯がないのは、どういうことだかわかりますか。


窯がないと、土器は作れませんよね。


実は、瀬戸の土器が、伊勢を通って、京都に運んでたんですよ。

物流の拠点が伊勢だったものですから、京都の人ってのは、伊勢から入ってくる瀬戸物、本当は瀬戸のものだけど、伊勢で作ってるものと間違えっていうことなんですよ。


だから、伊勢は物流の拠点だったんですけども、その物流の拠点を武田家は手に入れた。だから、瀬戸物がまず一つ、大きいですよね。

駿河だったら、紙が有名だから、紙が入ってきたりとかしますね。


それから、中国のいろんな、何でしょう、陶磁器、日本で作られないような青磁であったりとかいろいろね、そういうものも出てきてますよね。


それから刀であったりとか、あれも作れる場所ってのは限られてましたよね。


静岡で言ったら、駿府周辺だったら、島田が有名だった刀の産地ですけども、他のところから有名な刀とかも入ってきてますしね。


はい。

いろんなものが船を使って、それから入ってきてますし、京都にも集まったりしますからね、そういうところからいろんなものがやっぱり動いていきますので、伊勢を手に入れた、伊勢と結び付いいたっていうのは、非常に重要なことだったというふうに思いますね。


やっぱり、日本の中心であった京都へは、様々な物が運び込まれ、各地方へ運び出されていたんですね。そんな交易において、海路のスタート時点である伊勢の港はかなり重要なポイントだったと思います。

そんなところとの繋がりを作った武田信玄はさすがですね。


あのやっぱりあの物を運ぶのは船ですよね。


陸を運ぶのとは、量が全く違いますので、やっぱり物を運ぶのは、船、物流の拠点は、やっぱり港になってくると思いますね。


その港の重要性っていうのは、その歴史によってだいぶ違ってくると思います。


はい、港とかそれから歴史の流れを知るっていうのは、流通を考える上でものすごく重要なことだと思います。


はい、ありがとうございました。


あっという間にお時間が来ましたので、楽しいお話もここまで。

来週もまたお楽しみにです。


この番組は、

清水をみんなで盛り上げたい、

するが企画観光局、

魅力ある清水をつくる会、

鈴与グループ、

清水港振興の提供でお送りいたしました。

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