ぶらっと清水【第10回】三保半島の作り方 / The Formation of the Miho Peninsula
- 山内 真一
- 3月9日
- 読了時間: 15分
【提供】
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
【ぶらっと清水 第10回】
🎙️ぶらっと清水 〜三保半島のナゾを歩こう〜
波音ちゃん:さあ、今日のお散歩は、フェルケール博物館からスタートです!椿原さん、前回までのお話で、徳川家康が巴川の工事をしたり、武田信玄が江尻にお城を建てたりしてましたよね。あの時代って、地形をすごく意識していたんだなあって感じました。
椿原さん:そうですね。当時の人たちは、今のように衛星写真なんかなくても、自然を見て地形を読んでいたんです。
波音ちゃん:たとえば「三保半島」って、三つの穂のように見えるから「三保」って名前になったって聞いたことがありますけど…夢テラスから見ても、正直、3つのトサカには見えないんですよねぇ。
椿原さん:実は昔の地形は、今とちょっと違ったんですよ。日本平の山は、今でこそおにぎりのような形ですが、元々は駿河湾側にも丸く山があったはずなんです。それが、黒潮の海流によって削られてしまったんですね。
波音ちゃん:えっ、海流が山を削ったんですか?
椿原さん:はい。黒潮の一部が駿河湾に入ってきて、日本平の横を北上し、沼津の方まで行って、そこから反時計回りに渦を巻く流れになるんです。その流れが日本平にぶつかり、山を削って、巻き上げた砂を江尻や折戸の方に運んで…結果的に三保半島が形成されていったというわけです。
波音ちゃん:なるほど!地形の模型を見ながらだと、よく分かりますね〜!日本平から三保を見たときに、昔は3つのとんがりが見えていたんですね。
椿原さん:そうです。埋め立てが進んで、今はその形がはっきりしませんが、元々は砂が3つの筋のように伸びていた。それが「三保」の由来とされています。
🌊 三保半島はどうやってできた?
波音ちゃん:昔は巴川にももっと水があったんですよね?
椿原さん:そうなんです。もともと安倍川の水量が多くて、東側にもしっかり水が流れていたんですが、徳川家康が駿府城を築くときに、流れを西側に変えてしまったんです。その影響で、巴川に流れる水も少なくなった。
波音ちゃん:じゃあ、扇状地を作る力も弱くなってしまったってことですね。
椿原さん:まさにその通りです。川が運んできた砂が少しずつ海に出て、それを海流が南へ南へと押し流していく。その結果、三保半島のような「砂州」が形成されていったんですね。
🏝️ 安倍川だけでは三保はできない?
波音ちゃん:三保半島って、安倍川の砂でできたってよく聞きますけど、それだけじゃ説明がつかないってことですか?
椿原さん:そうですね。もし安倍川の砂だけでできたなら、川の南側にも同じような半島ができているはずなんです。でも実際には、三保半島だけ。それに似た小さいのが大浜にあるくらい。なので、三保はやっぱり海流の影響が大きかったと考えられます。
🏯 地名に込められた意味
波音ちゃん:ところで、「三保」って“三つに保つ”って書きますけど、御穂神社は違う字を使ってますよね?なにか意味があるんですか?
椿原さん:良いところに気づきましたね!「三保」は地名の音から当て字されたものだと思われます。でも、御穂神社の「御穂」は神社ですから、縁起の良い漢字が選ばれているんですね。これは奈良時代から、国がそうするように決めていたんですよ。
波音ちゃん:地名にまで縁起を担ぐって、なんか日本らしくて好きです。
🏞️ 日本平とヤマトタケル伝説
椿原さん:日本平も本来の地名は「有度山(うどやま)」なんですが、ヤマトタケルがこの場所から清水の美しい景色を見下ろした、という伝説が残っていて、それで「日本平」と呼ばれるようになったと言われています。
波音ちゃん:清水って本当に物語の宝庫ですね〜。ヤマトタケルのお話ももっと聞きたいけど、そろそろ時間が…。
⛩️ 清水の2つの水神さん?
波音ちゃん:最後にちょっとだけ…今週末は「水神さん」のお祭りがありますよね。子供の頃から行っていたのですが、最近になって「水神さんが2つある」ことに気づいたんです!
椿原さん:ふふふ、それは良い観察ですね。
波音ちゃん:富士見町の方だけかと思ってたら、清水銀座の方にもあって、ビックリしました!どうしてこんな近くに同じ名前の神社があるのか、すっごく気になっていて…。
椿原さん:そのお話は、来週たっぷりとご紹介しますよ。
波音ちゃん:ということで、今日はここまで♪三保半島や地形の成り立ちを知ると、まちの見え方がガラッと変わりますね。次回もお楽しみに〜!
【観光案内ガイド風】
ようこそ!清水へ!
Welcome to Shimizu!
ここ清水は、ただの港町ではありません。歴史が風のように通り過ぎ、地形が物語を語り、神話さえも静かに息づく――そんな町なんです。
Today, we're not just visiting a coastal town—Shimizu is a place where the landscape tells stories, the past whispers through every corner, and legends live on in quiet dignity.
まずは、フェルケール博物館から歩き始めましょう。目の前には日本平がそびえ、そこから見下ろす清水の街や三保半島が、当時の人々にとってどれほど特別だったか、すぐに感じていただけると思います。
Let’s start our journey from the Verkehr Museum. From here, you can see Mt. Nihondaira rising before you—and from its summit, imagine how the people of the past once gazed down upon the city of Shimizu and the Miho Peninsula with awe.
実は、三保半島って、「三つの稲穂のように見えた」ことから、その名がついたと言われているんです。でも、今は埋め立てや開発が進んで、なかなかその形には見えませんよね?
The name "Miho" is believed to come from its appearance long ago—it looked like three ears of rice sprouting into the sea. But with modern development and land reclamation, it’s not so easy to spot those shapes anymore.
でも、かつては日本平からくっきりとその3本の砂の筋が、まるで鳥のトサカのように見えたそうですよ。
Back then, from Mt. Nihondaira, you could clearly see three narrow ridges of sand—like the crest of a bird—stretching into the bay.
この三保半島がどうやってできたかというと、安倍川が砂を運んできただけじゃないんです。実はもっと大きな力、**黒潮(くろしお)**が関係してるんですよ。
Now, you might think the Miho Peninsula was formed just from the sand carried by the Abe River—but there's more to the story. A major player here is the Kuroshio Current.
黒潮の一部が駿河湾に流れ込み、日本平の山肌にぶつかり、海底の砂を巻き上げて、反時計回りに渦を巻きながら、砂を江尻や折戸へと運んでいった――それが、三保半島を少しずつ形作っていったんです。
A portion of the Kuroshio enters Suruga Bay, strikes the side of Nihondaira, stirs up the seabed, and swirls counterclockwise. That swirling motion carries sand toward Ejiri and Orido, gradually forming the Miho Peninsula.
そして忘れてはならないのが、巴川の存在です。昔はもっと水量があって、そこからも川砂が運ばれていました。でも、徳川家康が駿府城を築く際、安倍川の流れを変えたことで、巴川の水量が減り、その影響が地形にも残っているんです。
We also can’t forget the role of the Tomoe River. It once had a much higher water flow, contributing to the buildup of sand. But when Tokugawa Ieyasu built Sunpu Castle, he diverted the Abe River’s flow, reducing the Tomoe’s volume—and that left a lasting mark on the land.
つまり、私たちが今見ている三保の風景は、400年以上前の治水工事の結果でもあるんです。
So the landscape we see today in Miho is, in part, the result of flood control projects from over 400 years ago.
それに、安倍川が三保半島を作ったと言うなら、川の南側にも同じような半島ができていてもいいはず。でも、実際にあるのは北側の三保半島だけ。このことからも、海流の影響がどれだけ大きいかがわかりますよね。
And think about it—if the Abe River alone created Miho, shouldn’t there be a similar landform on the south side too? But there isn’t. That tells us just how influential the ocean currents really are.
ちなみに、三保といえば「御穂神社」がありますが、地名の「三保」と神社の「御穂」、漢字が違うことにお気づきでしたか?
By the way, you may have noticed that the characters for “Miho” in the name Miho Shrine (御穂神社) differ from those in the place name “Miho (三保).”
昔は地名の読み方に縁起の良い漢字を当てる習慣がありました。神社は特にその影響を強く受けたので、「御穂」のような神聖で美しい字が選ばれたんですね。
In ancient times, especially during the Nara period, it was customary to assign auspicious characters to place names. Shrines, of course, received the most elegant of these, which is why "Miho Shrine" is written with the characters for “sacred ears of grain.”
そしてもう一つ――有度山(うどやま)、今でいう日本平には、ヤマトタケル伝説も残っています。彼がここから三保を見渡したと言われているんです。
And one more thing—Mt. Nihondaira, once called Mt. Udo, is tied to the legend of Yamato Takeru, a heroic figure who is said to have gazed out over Miho from this very mountain.
きっと彼の目にも、三つに分かれた稲穂のような砂州が、美しい曲線を描いていたのでしょうね。
It’s easy to imagine the sandbars—shaped like ears of rice—unfolding before his eyes in graceful curves.
さて、そろそろ次の目的地へ向かう時間ですね。三保の神話と地形の不思議にふれたところで、次回は清水にある“ふたつの水神さん”の謎についてご案内します。
Well, it’s about time we head to our next destination. After exploring the myths and mysteries of Miho’s landscape, next time we’ll dive into the curious case of Shimizu’s two Mizugami shrines.
それでは、またお会いしましょう。旅はまだまだ、続きます――。
Until we meet again,the journey through Shimizu continues...
【放送内容のテキスト文面】
おっはの~ん。
清水港擬人化キャラクター七海波音です。
第一回 ぶらっと清水、始まります。
清水のいろんな場所をぶらっと歩きながら、素敵な魅力を発見して、お伝えしていきます。
この番組は、
清水をみんなで盛り上げたい、
するが企画観光局、
魅力ある清水をつくる会、
鈴与グループ、
清水港振興の提供でお送りいたします。
さあ、今日のお散歩のスタートは、フェルケール博物館からスタートです。
椿原さん、前回までのお話だと、徳川家康の巴川の工事や、武田信玄が江尻にお城を建てた理由だったり、すごく地形を意識してますよね。
または、地形から名前がついていたり、もちろん、現代なら衛星で撮影した写真からまちづくりの計画を立てたり、名前を付けやすいとは思うんですけど。
あんな昔に、皆さんどうやって地形を見ていたんでしょうか。
例えば、三保半島は三つの穂に見えるっていうことで、三穂という名前がついていると聞いたことがありますが、正直言って、日本平の夢テラスとかから見ても、全然その形に見えないんですけど・・・?
地図を見ていくと、日本平の山って、おむすび形をしてますよね。
本当言うと、もっと駿河湾側は、丸く山があったはずなんですよね。
それを、黒潮が日本の南側に流れてるんですけど、その一部が駿河湾の中に入ってきて、日本平の横を北上して、沼津の方まで行って、クンと向きを変えて、今度伊豆が流れて外に出ていってるんですよね。
その流れが日本平を削ってってるんですよね。ガーンとぶつかってるんです。
日本平にぶつかることによって山を削ってってるんですけども、海流がぶつかることによって、反時計回りに渦を巻いていってしまいます。
その渦を巻いてしまったことによって、江尻であったりとか、折戸の辺りですね、そのあたりまで砂を巻き上げて、その巻き上げられた砂によって、三保半島が形成をされてるっていうことです。
確かに今、フェルケール博物館の中の地形の模型を見ながら話しているんですけど、日本平って綺麗に直線で切られたような形をしていますね。
ずっと清水に住んでいますけど、初めて知りました。
ですから、日本平の山頂から三保半島の方を見ると、3本、トサカのように、本来は非補半島は出てたんですよね。
埋め立てでよくわかんないんですけども、その稲穂のように3本、トサカが出てた、くちばしが出てたことによって三保半島っていう名前が作られていたんですけども。
海流が清水の湾の中に、反時計回りにあったっていうのが一つですね。
なるほど。
昔は日本平から見えていたということですね。
現在の日本平から見るために、3本の稲穂にどうやったら見えるんだろうと思っていました。
それともう一つは、先ほどちょっと話ししたんですけども、巴川っていうのは、本来は、もっと水量が多かった。
安倍川の流れが、本当は扇状地の真ん中を流れていれば、もっと東側に水がたくさん行ってたっていうことなんですけども、おそらくは徳川家康が、駿府城を作るために、流れを西側に移しちゃったっていうことで、扇状地の東側に流れる水が少なくなっちゃったっていうことですよね。
そうすると、はい、麻機沼に流れていく水量が少なくなってったっていうことは、必然的に巴川に流れる水量も少なくなっていったっていうことですよね。
そうすると巴川が水量が長かった多くあったっていうときには、河口部分には扇状地をやっぱ作ってたっていうことですよね。
ところが水量が少なくなってくると、扇状地を作る力も、少なくなってくるし、巴川の水の勢いよりも、さっき言った、はい、清水の湾の中にある、反時計回りの水力の方が強くなるっていうことですよね。
そうすると、巴川がちょっとずつ運んできた、上流から運んできた砂、土、それを反時計回りの水、水の力が流して流していくとなると、どういう現象が起こってくるかっていうと、はい、向島のように、溜まってきた水が、土が、だんだんだんだんはい南側に向けて半島上に土を流して、半島状の地形を作っていったっていうことがわかるんじゃないかなと思います。
それが江戸時代の初めからっていうのは、おそらく戦国時代の終わりか江戸時代の初めに、巴川の流れが変わっていったから、はい、ここの部分が出てきた。ていうふうに考えてます。
そう考えると、400年前の徳川家康の行った、巴川の上流域の工事っていいますかね。はい、それが今でも影響を受けているっていうことがわかります。
今のお話だと、もし、徳川家康が安倍川の工事をしていなかったら、巴川の水量ももっと多くて、近年の洪水なども、さらに被害がひどかったかもしれませんね。
現代の清水にも、家康さんの影響が色濃く残っているんですね。
よくね、三保半島、安倍川の流れってその運んできた砂が溜まってできたっていうこと言われるんですけども、それもあるとは思うんですけども、もし、それだけで三保半島が作られたっていうんでしたら、逆の川、だから、今、三保半島は安倍川の北側に作られてますよね。
もしその考えだったら、川の南側にも三保半島と同じようなものができてないとおかしいですよね。
実際にはできてるのは、三保半島だけということになりますので、それは安倍川の流れによってできたっていうものとは、またちょっと違うんじゃないかなと思いますね。
海流によって作られてるっていうのはやっぱ大きいんじゃないかなっていうふうに思いますね。
実際にだから、あの、大浜の辺りにちょっと小さく、三保半島の小さいようなのが作られてますのでね、それが安倍川によって作られたものなんじゃないかなっていうふうに思います。
三保半島はずっと安倍川から流れた砂利で作られたと思っていましたが、そう言われてみると、確かにそうですね。
反対側のことは考えたことがなかったです。
ちょっと地図を見てみますね。
大浜のところに、小さな三保半島のようなもの、確かにありますね。
もちろん、安倍川から流れてきたものもあるとしても、規模を考えると、三保半島は海流でできたという方がしっくりきます。
今、たくさん三保半島にまつわるお話を聞いてきたんですけど、聞いていて気になったことがあります。
三保って「三に保つ」と書いて三保と呼んでますけど、それこそ、昔から三保にある御穂神社は、漢字が違いますよね。
この三保の漢字の違いは何か意味があるんでしょうか。
はい、三保っていう言葉の響きっていうか、それが重要だったと思うんですけども、地名って一つには言葉で、あの音で伝わってくってのありますよね。
だから今の三保っていうのはその言葉に対して漢字を当てたっていうことだけだと思います。
反対に御穂神社っていうのは神社ですので、はい縁起のいい字をつけなければならないっていうこと。
これ、奈良時代にも地名をつけるときには、縁起の良い地名、名前、漢字をつけなさいっていうことは、国の方も言ってますのでね。
御穂神社の場合には、形、それからありがたいということで御穂っていう字をあてて、御穂神社っていう名前をつけているんだろうと思います。
奈良時代には、国から地名の漢字を縁起の良いものにするという決まりが出ていたんですね。
日本の文化って、そういうところも素敵だなと思います。
ひとつ、日本平っていうのも、なぜ日本平っていうのかっていう、元々は有度山っていうのは地名なんですけども、日本平っていうのは伝説では、ここからヤマトタケルが清水を見下ろしたっていうふうに言われてるんですけども、今はね、三保半島、かなり開発が進んで埋め立てが進んでしまったので、わかりにくいんですけども、明らかに当時の人たちは、ここから三保半島を見ると、砂州ってよく言うんですけども、とがったくちばしのような半島が三つ、内海に面して、こうあるのは見えたはずですです。
でので、そうですね、ヤマトタケルが、見た風景じゃないですか、三保っていうのは。
そういえば、日本平って有度山なんですもんね。
ヤマトタケル伝説も存在する、清水ってすごいですね。
個人的には、ヤマトタケルのお話も気になるのですが、時間も限りがあるので、この辺でやめておきます。
話題は巴川に戻りますが、今週末に水神さんのお祭りがありますよね。
清水の三大祭りとして有名な水神さん。
私も子供の頃から行っていますが、昔と違って、規模もずいぶん小さくなってしまいましたよね。
寂しい気もしますが、それでも、まだ開催してくださっていることに感謝です。
ところでこの水神さん、私、個人的に非常に気になっていたことがあります。
というのも、最近気づいたんですけど、水神さんって2つありますよね。
それも結構近くに。気づくまでは、富士見町の方の水神さんしかないと思っていました。
でも、清水銀座の方にも、水神さんがありました。
普通はこんなに近くに同じ名前の神社があるって考えられないと思うんですが、何か理由があるんでしょうか。
このあたりを、来週また教えていただきたいと思います。
あっという間にお時間が来ましたので、楽しいお話もここまで。
来週もまたお楽しみにです。
この番組は、
清水をみんなで盛り上げたい、
するが企画観光局、
魅力ある清水をつくる会、
鈴与グループ、
清水港振興の提供でお送りいたしました。