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魅力ある清水を創る会
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ぶらっと清水【第11回】2つの水神さんのヒミツ / The Mystery of the Two Water Deities

  • 執筆者の写真: 山内 真一
    山内 真一
  • 3月24日
  • 読了時間: 15分








【提供】


【ぶらっと清水 第11回】


🎙️ ぶらっと清水 ~ふたつの水神さんのヒミツ~


波音ちゃん:さあ、今日のお散歩は「水神さん」からスタートです!先週末は、清水の夏の始まりを告げるお祭り、水神さんがありましたよね。そこで今日は、ちょっと不思議なことについて聞いてみたいんです。清水って、徒歩10分ちょっとの距離に「水神さん」が2つあるんですよね。普通、同じ名前の神社がこんなに近くにあるって珍しいと思うんですが、どうしてなんでしょう?


椿原さん:いや~、その質問、鋭いというか…ちょっと悩ましいんですよ(笑)実は僕もこっちに来たときから、ずーっと気になってたんです。「なんで二つあるんだ?」って。


波音ちゃん:やっぱりそう思いますよね!


椿原さん:で、いろいろ調べてみたんですけど、今のところ僕の中では「2つの仮説」があります。

波音ちゃん:おお~!それ、聞かせてください!


🏞️ 仮説その1:巴川の河口が動いたから?


椿原さん:まず1つ目は、巴川の河口が昔と場所が違っていたってことです。今の水神さんの一つは、江尻宿の七間町近くにあるんですが、これは昔の巴川の河口に近いんですよね。


波音ちゃん:なるほど!じゃあ、昔の河口のそばにまず一つあって、そこから河口が動いたことで、もう一つできたと?


椿原さん:そうなんです。戦国時代の終わりから江戸時代の初めにかけて、今のドリプラやフェルケール博物館のあるエリアが、自然の堆積で半島のように伸びてきたんですよ。で、その先端にもう一つの水神さんが建てられた――つまり「地形の変化に合わせて」水神さんも増えた、って考えられるんです。

⚓ 仮説その2:港が移動したから?

椿原さん:もうひとつの仮説は、「港の場所が変わったから」っていうものです。戦国時代までは「江尻港」って呼ばれていたのが、江戸時代になると「清水港」へと名前が変わり、実際に港の場所も北から南へと移ったんです。


波音ちゃん:あ、港の移動!それなら、新しい港の近くに、もう一つ水神さんが建てられても納得です。


椿原さん:清水の巴川南側には、当時42件もの廻船問屋があってにぎわっていました。そういう場所に「水の神様」を新たに祀ったというのも自然な流れかもしれませんね。


👻 そして登場、河童伝説!?


波音ちゃん:あの…「水神さん」で思い出したんですけど、「稚児橋」に河童の像がありますよね?あれ、関係あったりします?


椿原さん:はい、実はあるんですよ!稚児橋には「河童の伝説」が残っていて、橋がかけられた江戸時代初期の慶長12年(1607年)に、渡り初めのときに河童が現れて西へ、西へと走り去ったっていう話があるんです。


波音ちゃん:うわぁ…想像するとちょっとドキドキしますね…!


椿原さん:しかもこの河童、ただの妖怪じゃなくて、「川の神様」として信仰されていた存在なんです。だから、河童が西へ行った=水神の力が移った――そんな風にも考えられるんですよね。


🌊 かつての巴川の河口はどこに?


波音ちゃん:それにしても、巴川の河口が動いたって、そんなに大きく変わるものなんですか?


椿原さん:変わるんです。現在の河口は清水マリーナの近くですが、昔――中世の頃(今から約400~450年前)は、新清水駅や区役所の辺りが巴川の河口だったんですよ。


波音ちゃん:えぇっ!? あんな内陸に??


椿原さん:そうなんです。東海道線や静岡鉄道の鉄橋が交差する場所で、巴川がカクンと曲がってますよね?あの辺りが、かつての河口なんです。その後、少しずつ自然の土砂が積もって、ドリームプラザ周辺が半島のように伸びてきた。だから、地形を見れば川の歴史が見えてくるんです。


🗺️ 地図が語る清水の物語


波音ちゃん:あぁ~、地図を見ながら聞くとめちゃくちゃ面白いですね!


椿原さん:でしょ?実は、今の東海道線が江戸時代の旧東海道のルートをなぞってるっていうのも、地図を見るとわかるんですよ。西からまっすぐ来た線路が、古い川の位置に当たってカクッと曲がって、それから湾に沿って走っている――これは、自然と人の動きの痕跡なんですよね。


波音ちゃん:すごいなぁ、清水ってやっぱり「地形の歴史都市」なんですね。次回は、ぜひこの巴川と清水の経済のつながりについても聞かせてください!


椿原さん:もちろんです、楽しみにしててくださいね。


波音ちゃん:ということで、今日は「ふたつの水神さんのナゾ」についてお話を聞きました。来週もまた、清水の奥深~い物語をお届けします!お楽しみに〜!



【観光案内ガイド風】

🌊 ようこそ!清水へ!

🌊 Welcome to Shimizu!

ここ清水は、海と山と川が交差する場所。けれどそれだけじゃありません。清水の街には、時代を超えて受け継がれてきた文化と、地形が語る物語が静かに息づいているんです。

Shimizu is a place where sea, mountains, and rivers come together.But more than that, it's a town where stories are whispered by the landscape, and the culture has been passed down through generations.

今日ご案内するのは、ちょっと不思議な話。それは、清水に“水神さん”が2つある理由についてです。

Today, I’d like to share with you a curious little mystery:Why are there two Mizugami (Water Deity) shrines in Shimizu, located just a short walk from each other?


⛩️ 二つの水神さん、それぞれの意味


⛩️ Two Mizugami Shrines, Two Meanings

ふつう、神社って同じ名前で近くに二つあるなんて、あまりありませんよね?でも清水では、徒歩10分くらいの距離に、富士見町の水神さん清水銀座の水神さんがあるんです。

Normally, it’s quite rare to find two shrines with the same name so close together.But here in Shimizu, we have two Mizugami shrines—one in Fujimi-cho and one in the Shimizu Ginza shopping area—just a ten-minute walk apart.

どうしてそんなことが起きたのか?いろんな説があるんですが、有力な説が二つあります。

So how did this happen?There are a few theories, but two of them stand out as especially likely.


🌊 河口が動いたから

🌊 The River Mouth Shifted


まずひとつ目の理由は、巴川の河口が移動したということ。かつては今のように海のそばではなく、もっと内陸、現在の新清水駅や清水区役所の辺りに河口があったんです。

The first theory is that the mouth of the Tomoe River shifted over time.In the past, the river didn’t flow into the sea where it does now—it used to empty out further inland, around where the current Shimizu Ward Office and Shin-Shimizu Station are located.

その後、土砂の堆積や自然の流れの変化で、今のような河口が生まれ、その結果、もともとの水神さんの場所に加えて、新しい河口近くにももう一つ水神さんが建てられたと考えられているんです。

Over time, with the accumulation of sediment and changes in natural flow, the river mouth moved.As a result, a new Mizugami shrine was built near the new mouth, in addition to the original.


⚓ 港の移動があったから

⚓ The Port Moved


もうひとつの説は、港の場所が移動したからというもの。戦国時代までは「江尻港」が中心でしたが、江戸時代になると港の中心は南側の「清水港」へと変わっていきます。

The second theory is that the port itself moved.During the Warring States period, the main port was "Ejiri Port", but in the Edo period, the center shifted southward to what became known as "Shimizu Port."

そして、新しい港のそばに、新しい水神さんが建てられた――そう考えると、とても自然な流れですよね。

So it would only make sense that a new Mizugami shrine would be established near the new port.A logical progression as the town evolved.


👻 河童の伝説が残る橋

👻 A Bridge With a Kappa Legend


ちなみに、**「稚児橋(ちごばし)」**という橋をご存じですか?ここには、河童が渡り初めの儀式に現れて西の方へ走っていったという伝説があります。

Have you heard of Chigobashi Bridge?Legend says that during its dedication ceremony in the early Edo period, a kappa, a mythical water creature, appeared and ran off toward the west.

この河童は、ただの妖怪じゃありません。「川の神様」として信仰されていた存在だったんです。

But this kappa wasn't just a mischievous spirit.It was actually worshipped as a water deity, a kind of guardian of the river.

つまり、河童が向かった先に、新しい信仰の場所=水神さんが生まれたとも考えられるわけです。

So perhaps the kappa’s westward journey symbolized the shift of divine presence—and thus, a new Mizugami shrine was established in that direction.

🗺️ 地図に残された“清水の記憶”

🗺️ Shimizu’s Memory, Written in Maps

面白いのは、こうした歴史が地図を見れば見えてくることです。古い川の曲がり具合、港の位置、東海道線のカーブ――すべてが「かつての風景」を教えてくれるんです。

What’s fascinating is how you can actually see all this history on the map.The bends in the river, the location of the old port, the curve in the Tokaido Line—all tell stories of what once was.

今度、ぜひ地図を片手に歩いてみてください。そうすると、清水の町がまるで昔の姿を取り戻したように見えてきますよ。


So next time you take a stroll through Shimizu, try bringing a map.You just might start to see the town as it once was, long ago.

さて、いかがでしたか?「なぜ水神さんが二つあるのか?」という疑問から、港や川、そして伝説まで、いろんな物語がつながっていたことがわかります。

So, what do you think?A simple question—"Why are there two Mizugami shrines?"—opened up a world of stories, from ports and rivers to ancient legends.


次回は、巴川と清水の経済のつながりについて、また一緒に旅してみましょう。

Next time, we’ll explore how the Tomoe River shaped Shimizu’s economy.

それではまた!See you soon!




【放送内容のテキスト文面】


おっはの~ん。

清水港擬人化キャラクター七海波音です。

第一回 ぶらっと清水、始まります。

清水のいろんな場所をぶらっと歩きながら、素敵な魅力を発見して、お伝えしていきます。


この番組は、

清水をみんなで盛り上げたい、

するが企画観光局、

魅力ある清水をつくる会、

鈴与グループ、

清水港振興の提供でお送りいたします。


さあ、今日のお散歩のスタートは、水神さんからスタートです。


椿原さん、先週末は清水の夏の始まり、水神さんのお祭りでしたね。

先週の放送の最後に、ちょっとこの話になったんですけど、この富士見町の水神さんと、清水銀座の水神さん、徒歩で10分ちょっとの近い距離に同じ名前の神社が二つありますよね。

普通、こんなことはあまりないと思うんですが、なぜ近くに、同じ水神さんが二つあるんでしょうか。


はい、非常にいい質問っていうか、苦しい質問になるんですけども、二つの水神さんって僕もこちらに来たときに、すごく気になったんですよね。

なぜ、水神さんが二つあるんだろうっていうことで調べてみようかなって思ったんですけども。


元々、水神さんっていうと、水の神様ってのは確かなんですけども、海に関係する神様かなというふうに思ったんですけども、水全般っていうよりも、あの、川、淡水ですよね、それに関係する神様っていうのが大きいみたいですね。


二つあるっていうのはなぜかなってのは、今でも考えてはいるんですけども、二つ、僕の頭の中に考えが、今ボンヤリとあります。


一つは、ちょっと先、前も話したんですけども、巴川の河口が移動したからっていうのが一つあります。

今、先ほどお話した、江尻宿の七間町の近くにある水神さん、それはmおそらくは江戸時代よりも前の時代の、巴川の河口に当たると思います。


ところが、戦国時代の終わりから、江戸時代の初めくらいに、今のフェルケール博物館とかドリームプラザのある部分って言いますかね、土地ですよね、半島状に伸びてますけども、それがだんだん伸びてきたっていうふうに文献に書かれてます。

そうなると、その伸びてきた部分の先端近くに、新しくまた水神さんができてます。


ですので、その伸びた分だけ水神さんが移動したとか、二つできたかなっていうふうにも考えられます。


なるほど。巴川の河口部分が移動したのが、水神さんの立っている場所に関係がありそうっていうことなんですね。


移動するより、もう一つ建てちゃえって感じだったのか、それとも人工的に変えたから、本来の場所にも一応そのまま建てとこみたいな感じなのかはわかりませんけど、河口部の場所というのは重要なポイントな気がしますね。


はい。それとは別にですね、もう一つの考えとして、港の移動が関係しているかなっていうのもあります。


港の移動ですか。


水神さん自体が川に関係するもんだとすると、ちょっと弱いかなとも思うんですけども、歴史の文献を調べていくと、清水の湾に面した港というのは、戦国時代くらいまでは、江尻の津とか江尻港というふうに出てきます。


ですので、はい、あの巴川よりも北側に港があったんじゃないかなっていうふうに思われます。それが江戸時代に近くなってくると、巴川よりも南側の、清水の港として出てきます。

江尻の港というのは出てこなくなるんですよね。

ですので、港が江尻から清水地域に移っていったというのは明らかなことですよね。


それから、私もよく話するんですけども、清水港の廻船問屋42件というふうに話しますけども、その清水港が作られていたのは、清水の巴川の南側に当たりますので、はい、考えようによって、江尻の港がなくなって、清水の港に移っていったことから、はい、水神さんが、江尻にあったものが、また新たに、清水地域に近いところに移されたっていうことも考えられるんじゃないかなっていうふうに思います。


戦国時代の港の位置と、江戸時代の港の位置が違うということが、呼び方の違いからわかるんですね。

港が移ったから、新しい場所にもう一つ、水神さんが建てられたと考えられるんですね。


もう一つね、気を付けておきたいっていうか、注意しておきたいのが、江尻の宿場にあります。

稚児橋ですね、あの、稚児橋の伝説がちょっと気になっております。


稚児橋の伝説?

それは聞いたことがないのですが、どんな伝説なんですか?


合羽橋とも言われているんですけども、稚児橋が架けられた頃ですよね。


稚児橋自体は慶長の12年ですか、江戸初期ですね、かけられているんですけども、その掛けられた渡り初めのときに、河童がその稚児橋に現れて、西に移って、入江の方に走り去っていったっていう伝説が残っています。


この稚児橋の名前の由来になった河童も、はい、これもお水の神様として崇められていますよね。

ですので、その神様が、入江の方に移っていったというのも、港の移動、それに関係しているのかなっていう気もしています。


ただし、この河童についても、海ではなくて、淡水、川の神様として知られているものですから、ちょっとそのところが気になってはおります。


河童の伝説ですか。

確かに、稚児橋の欄干には河童の像がありますね。


河童というと、人を襲う妖怪というイメージでしたが、川の神様と考えられていたんですね。

川の神様である河童が川下へ移動したから、それを追うように、江尻から河口の方へ、港が移されて、二つ目の水神さんが建てられたという説にも納得です。


はい、それから、近年の研究では、この河童が水害にも関係するということが言われております。ですので、そういった巴川に関係する水害、そういうのも、これからもちょっと考えて考察をしていかなきゃなんないのかなっていう気もしています。


いずれにしても、この河口部付近に二つの水神さんがあるというのは、非常に、川それから港にとって、どういう意味を持っているのかなっていうのは気になっているところです。


水神さんに河童が関係していたかもしれないとは初めて知りました。

二つの水神さんの謎について、まだまだ知らないことがありそうですね。


椿原さん。水神さんの場所の一つの目安にもなりそうな巴川河口部ですが、もう少し詳しく聞きたいです。


はい、河口部について話をしたいと思います。

今、巴川の河口部ですね、清水マリーナの辺りにありますけども、はい、実を言うと中世の河口部、だから今から400年とか450年くらい前の河口部の位置っていうのは、今とは変わってたんですよね。


あの地図を見てみると、蛇行しながらずっと来てるんですけども、そうですね、皆さん、東海道線と、それと静岡鉄道鉄橋で巴川立ってるんですけども、そのちょうど鉄橋が二つ渡るところ、そこでカクンと巴川が曲がっているんですよね。


実を言うと、そのカクンと曲がったところ、今の新清水駅とか、それから静岡市役所の清水区役所のある場所ですよね。

あの辺り、中世までの巴河口部になります。


いろんな文献とか地図見ていくと、あれよりも南側の今の博物館とかドリームプラザがのっているところが、半島のようになってますけども、そこは、江戸時代の初めくらいからだんだんだんだん自然の堆積で伸びてきたっていうふうなことがわかります。

ですので、それよりも前は、はい、河口部はもっと上の方だったんですよね。


あまり気にしたことがなかったですが、確かに地図をよく見てみると、大きく川が曲がっているのがわかります。

このあたりが、昔の巴川の河口だったんですか。

400年前、中世の時代には、新清水駅あたりの場所にあった河口が、戦国時代には、江尻の辺り、江戸時代には港橋の辺りまで移動し、長い年月を経て現在の場所になったんですね。

川の形や長さがこんなにも変わることがあるなんて驚きです。


椿原さん、他にも、地図を見てみるとわかる面白いネタってあるんですか?

なんだかいっぱいありそうですよね。


で、あの、これ、ちょっとしたネタなんですけども、地図を1回見ていくと、東海道線、大体、東海道線ってのは、江戸時代には、旧東海道の道の後に東海道線が引かれてるんですけども、はい、西側から見ていくと、まっすぐに静岡平野をずっと突っ切ってきて、今言った昔の大江川の河口部、そこのところで、海に当たって、カクンと曲がって、海に沿って、東側に伸びてるんですよね。

これは、おそらくは昔の道、どういうふうに作ったかっていうのを地図上で確認できるんすよね。


すごい!巴川ってやっぱり清水のまち作りの中心なんですね。

次回は、巴川と清水の経済についても伺ってみたいと思います。


はい、ありがとうございました。

あっという間に時間が来ましたので、楽しいお話もここまで。

来週もまたお楽しみにです。


この番組は、

清水をみんなで盛り上げたい、

するが企画観光局、

魅力ある清水をつくる会、

鈴与グループ、

清水港振興の提供でお送りいたしました。

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