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ぶらっと清水【第12回】水軍と海賊って同じなの? / About the Navy and Pirates

  • 執筆者の写真: 山内 真一
    山内 真一
  • 3月28日
  • 読了時間: 15分








【提供】


【ぶらっと清水 第12回】


🎙️ぶらっと清水 ~巴川と清水港のルーツをたどる旅~


波音ちゃん:おっはの~ん!清水港擬人化キャラクター、七海波音です♪今日もぶらっと清水、始まります!

さあ、今回のお散歩は、巴川の河口部からスタートです。以前も少し触れましたが、巴川って、清水の人たちにとっては暮らしの中心だった川なんですよね。お茶を運んだり、船が行き交ったり…今日はその「川と人の関係の変化」について、椿原さんと一緒に見ていきたいと思います。


椿原さん:よろしくお願いします!はい、波音ちゃんが言うように、巴川はただの川じゃなくて、人の営みに深く関わってきたんですよ。たとえば、今の地名「江尻」「入江」「清水」も、もともとは巴川の河口付近にあった港の位置に由来してるんです。


波音ちゃん:えっ、そうなんですか!?そういえば、清水駅のある場所って、かつては「江尻」って呼ばれていたって聞いたことがあります。


椿原さん:そうなんです。実際、明治22年に東海道線ができたとき、駅名は「江尻駅」でした。その後、町の合併などで「清水駅」になったんですよ。


波音ちゃん:へえ~、知らなかった!そうすると、「清水」という地名も、もとは巴川の南側に港ができてからなんですね?


椿原さん:その通りです。清水港という呼び方が定着したのは、江戸時代以降なんです。実は、それ以前の平安・鎌倉時代の絵日記などを見ると、「江尻の津(えじりのつ)」という名前が使われていたんですよ。


波音ちゃん:「津」って、港を意味する漢字ですよね?


椿原さん:そう。だから、当時は港といえば今の清水駅のあたり、「江尻」を指していたんです。ちなみに、鎌倉時代の名作『十六夜日記』にも「江尻の津」が登場していますよ。


⚓ 今川義元と清水港の登場


波音ちゃん:じゃあ「清水港」という名前が登場するのは、もっと後のことになるんですか?


椿原さん:はい。たとえば、1560年の「桶狭間の戦い」の直前に、今川義元が出した古文書に「清水港」という記述が初めて登場します。


波音ちゃん:ええっ!そんな昔からあったんですね!


椿原さん:その文書は、当時清水港を拠点にしていた**廻船問屋の小柳津東次郎(おやいづ とうじろう)**という人物に宛てたものなんです。今川家から、港で使う船に対して税の免除を与える内容でした。


波音ちゃん:つまり東次郎さんは、清水港の有力な商人だったんですね?


椿原さん:そうです。しかもこの人物は、後に江尻宿の代表的な問屋「寺尾家」の祖先にあたることがわかっています。


📜 武士でもあり、商人でもあった東次郎


波音ちゃん:でも、東次郎さんって完全な商人じゃなくて、「中元(ちゅうげん)」っていう、武士と庶民の中間の立場だったそうですね?


椿原さん:その通り。実際、彼には**武士の名前(佐田与/さだよ)**が与えられていたことが記録に残ってます。でも東次郎本人はその名前を名乗らなかった。おそらく、自分は「商人としての誇り」を持っていたんでしょうね。


波音ちゃん:かっこいいですね…!身分じゃなくて、自分の仕事に誇りを持っていた人だったんだ…。

⚔️ 清水港と水軍の関わり


波音ちゃん:さっきから出てくる「廻船問屋」って、どんな人たちだったんですか?


椿原さん:簡単に言えば、海上物流のプロ集団ですね。そして面白いのが、清水港にはその廻船問屋たちと一緒に、水軍や海賊(武士)たちも集まっていたんです。


波音ちゃん:海賊!?ちょっと悪そうなイメージありますけど…武士もいたんですね。


椿原さん:戦国時代では、水軍=海の武士たちと考えてもらった方が正確かもしれません。今川家の配下には、岡部氏や興津氏など、小規模ながらも力のある水軍がいたんですよ。


波音ちゃん:なるほど~。じゃあ、清水港って、物流と軍事の両方の拠点だったってことですね!


椿原さん:まさにその通りです。ただ、今のところ、当時の港がどこにあって、どんな構造だったのかは、まだ研究途中なんですよ。


波音ちゃん:それにしても、地名や古文書から、こんなに深く清水の歴史がわかってくるなんて、すごく面白いですね!


椿原さん:本当にそうですね。地形、川、港、商人、武士…すべてがつながって清水の今があるんです。


波音ちゃん:今日はとても勉強になりました!ということで、今回はここまで。また来週もお楽しみに!



【観光案内ガイド風】

🏯 ようこそ!清水へ!


🏯 Welcome to Shimizu!


皆さん、ようこそ清水へ!今日は、町のはじまりを物語る巴川と清水港の歴史を一緒にたどっていきましょう。ここ清水は、ただの港町ではありません。川が流れを変え、地名が生まれ、人の暮らしが形づくられてきた――そんな歴史が、静かに息づいている場所なんです。

Welcome to Shimizu, everyone!Today, let’s take a journey through time as we explore the history of the Tomoe River and the origins of Shimizu Port.This isn’t just any harbor town—Shimizu is a place where rivers shifted course, names were born, and lives were shaped by the landscape.


🌊 巴川が町の名前をつくった


🌊 The River That Named the Town

まずご覧ください、あちらに流れるのが巴川(ともえがわ)。この川の河口周辺には、今も「江尻(えじり)」「入江(いりえ)」「清水(しみず)」という地名が残っています。

Take a look over there—that’s the Tomoe River.Around its mouth, the names “Ejiri,” “Irie,” and “Shimizu” still remain to this day.

清水駅のある辺り、実は昔は「江尻」と呼ばれていたんです。明治時代に鉄道が通った際、最初の駅名は「江尻駅」。後に町の合併などで「清水駅」に変わったんですね。

Where Shimizu Station now stands was once called “Ejiri.”In fact, when the train station first opened in the Meiji era, it was named Ejiri Station.It was only later that it became “Shimizu” after municipal unification.


📜 最初の港は「江尻の津」


📜 The First Port: “Ejiri-no-Tsu”

さらに歴史をさかのぼると、平安時代や鎌倉時代の旅日記などには、今の清水港ではなく**「江尻の津(つ)」**という名の港が登場します。

If we go further back in time, to the Heian and Kamakura periods, old travel journals mention not “Shimizu Port,” but a port called “Ejiri-no-Tsu.”

「津」は小さな港を意味する言葉で、まさに巴川の北側、今の清水駅付近が当時の港の中心だったんです。

The word “tsu” means a small port, and it shows that the area near present-day Shimizu Station was once the heart of the harbor.


⚓ 今川義元が「清水港」と記した瞬間


⚓ The First Mention of “Shimizu Port”

時代は戦国時代、1560年――あの「桶狭間の戦い」の直前に、今川義元が出した一通の古文書に、はじめて「清水港」という言葉が登場します。

Fast forward to the Sengoku Period, in 1560—just before the famous Battle of Okehazama—a document from Imagawa Yoshimoto contains the first known use of the name “Shimizu Port.”

手紙の宛先は、小柳津東次郎(おやいづ・とうじろう)という廻船問屋の商人。清水港での取引に使う船に対して、税を免除するという内容でした。

That letter was addressed to Oyairizu Tojiro, a local shipping merchant.It granted him tax exemption for trade vessels operating out of Shimizu Port.


👤 東次郎はただの商人じゃなかった?


👤 Tojiro: More Than Just a Merchant

東次郎さんは、単なる商人ではなかったんです。「中元(ちゅうげん)」という武士と庶民の中間の立場で、今川家から武士の名前(佐田与)も与えられていたんですね。

Tojiro wasn’t just a merchant.He held a unique status called “chugen,” between samurai and commoner, and was even granted a warrior name—Sadayo—by the Imagawa clan.

けれど本人はその名を使わず、あくまで商人としての誇りを持っていたようです。

But he chose not to use the warrior name, showing his pride as a merchant.


⛴️ 港には廻船問屋と水軍がいた

⛴️ Merchants and Naval Forces at the Port

清水港には、商人のほかに、水軍(すいぐん)や海賊武士たちも集まっていました。

Shimizu Port was not only a center for trade—it was also home to naval forces and warrior seafarers.

岡部氏や興津氏など、今川家に仕えた小規模な水軍武士たちがここを拠点にしていたと考えられています。

Families like the Okabe and Okitsu clans, serving under the Imagawa, used this area as their strategic base.


現代でいう「海賊」とはイメージが違って、当時は海を守る“海の武士”たちだったんですね。

Unlike today’s notion of pirates, these were honorable “warriors of the sea” who protected trade routes and coastal areas.


🌅 清水の原点がここにある


🌅 This Is Where Shimizu Began

つまり、清水のはじまりは「江尻」と呼ばれた小さな港町から始まり、戦国の動乱の中で「清水港」という名が生まれ、商人と水軍が集まり、今の清水が形作られていったのです。

In short, Shimizu began as a small port town known as “Ejiri,”and over time, through the chaos of the Sengoku era, evolved into “Shimizu Port,” where merchants and naval forces gathered to shape the vibrant town we know today.

この町の地名ひとつひとつ、古文書の一行一行に、静かに生きている歴史があるんです。

Every place name and every line in old documents—they all quietly whisper the rich history of this harbor town.


さて、清水の「町の始まり」をたどってきた今回の旅、いかがでしたか?次回は、港の構造や清水の水軍の暮らしについて、もう一歩ふみこんでご案内します。

So, how was our walk through the origins of Shimizu today?Next time, we’ll go deeper into the structure of the port and the life of Shimizu’s naval forces.

またお会いできるのを楽しみにしています。See you again soon!



【放送内容のテキスト文面】


おっはの~ん。

清水港擬人化キャラクター七海波音です。

第一回 ぶらっと清水、始まります。

清水のいろんな場所をぶらっと歩きながら、素敵な魅力を発見して、お伝えしていきます。


この番組は、

清水をみんなで盛り上げたい、

するが企画観光局、

魅力ある清水をつくる会、

鈴与グループ、

清水港振興の提供でお送りいたします。


おはよう清水港擬人化キャラクター七海波音です。

ぶらっと清水始まります。

この番組は、いつかきっとあるよね。

瀬谷グループ日出で遊ば清水港振興静岡商工会議所の魅力ある清水をつくる会静岡の観光振興を推進する公益財団法人するが企画観光局な提供でお送りいたします。

さあ、今日のお散歩のスタートは巴川加工部からスタートです。

以前、巴川、お茶などの商品を運ぶための道として使われていたというお話もありました。

巴川血水に住む人たちの生活の中心にあったんですよね。

椿原さん前回の放送では巴川長い年月を経て、形を変えてきたということでしたが、巴川の変化とともに、周りに住む人々の暮らし現在はどのように変化していたのでしょうか。

はい、はい、今の巴川の河口部のこと話ししたんですけども実を言うと、今清水の地域で、江尻江戸の江にお尻ですよね江尻という地名それから入江駅名で利用可ってありますよね。

それから、清水という地名が巴川の河口部周辺にあるんですけども、現在でも巴河口部の北側、それを江尻というふうに呼んでます河口部のすぐ南側を入江、それから加工部からちょっと南に下ったところを清水というふうに呼んでます。

ですので清水港っていうのは、江戸時代には、今の清水地域の中にあったから清水港ですよね。

清水の次郎長も清水地域に生まれて育ったから、の次郎長ですよね。

そうなんですね。

江尻、入江、清水という地名は、線清水駅辺りに巴川の加工があった時代につけられたんですね。

はい江尻っていうのを考えると、はい面白いのは今の清水駅っていうのは先ほど言った江尻地域の中にありますよね、ちょっとおかしいじゃないかなと思うんですけども、明治22年にさ最初に東海道線の駅ができたときには、江尻駅という名前でした合併をしたので、清水駅という名前になりました。

JRの清水元々はG B Hと言っていたんですか。

なんだか、今聞くとしっくりこないですね。

はい歴史の話になるんですけども、清水地域江尻地域の埋めてですよね。

最初に港があった場所を考えてみると、平安時代とか鎌倉時代の文献ですね。

旅をした人たちの絵日記とか、見ていくと一番最初に出てくるのが、江尻野津というふうに出てきます。

Gの三つですか。

杖というのはどういった意味なんでしょうか。

江尻という名地名でつというのは焼津の津ですよね。

港の小さいものとかをするというふうに呼んだりとかするんですけども、江尻野津というふうに出てきますこれ鎌倉時代の十六夜日記の中にも、江尻野津という名前で出てきておりますおそらくはまだこの頃中世の早い頃には清水港というのは出てきません。

ですので、清水地域ってやっぱり清水の1の中に港があったのは巴川よりも北側に港があったというふうに考えられます。

成歩堂中世の時代は、港町というと、清水駅のある江尻の辺りのことを指したんですそうですね。

それからですね、自体ちょっと前です。

ね今は和気の時代ですね戦国時代ですけども、今川義元が6の3年ですが1560年に桶狭間の戦いでた信長に打たれてしまいますけども、その直前ですね確か6 3年の3月数だったと思うんですけども今川義元が清水港の中元の後ろ、中元というのは、仲間っていう漢字を書いてるんですけども真ん中の中に会田っていう字ですよね。

はいこれあの、武士と普通の人のちょうど中間という意味で、くらいを示す。

元という意味ですね。

当時どうっていう字を書いてます藤枝の藤に、次にロウですね、中元の田路堂っていう人に宛てた古文書が残っております。

鎮西の東次郎の名前は初めて聞きますね。

今川義元が次郎に宛てたその手紙には、どのようなことが書かれていたんですか。

それを見ますと、中元の当時はどうも船を使った商売をやっていたようなんですけどもその商売について今川義元から今学期の仕事もしてたんですよねおそらくですので、今川家の両国の治療うちの中にある港においては中元等児童が20日船一層分だったかなについて税金を免除するということが書いてます。

その中に当時の今川竜馬多くの港が全部羅列してあるんですけども、一番最初に出てくるのは清水港っていうふうに出てきてます清水港の跡が例えば沼津のみなどであったりとかそれから興津であったりとか焼津であったりとかという港の名前が羅列をしてありますその中でも一番先に清水港というふうに出てきているものですから清水港をを本拠地とした廻船問屋ですねだというふうに考えられています。

その当時ろうという人は、今川家の領地の中のいろいろな港で取引を行っていた人なんですね。

清水港を中心に商売をしていた廻船問屋さんということですが、実際はどんな人物だったんでしょうか。

この中元の董事長なんですけどもどういうちょとして残っているかというと実は今は静岡市の肖像になってるのかな。

旧寺尾家門所というものの中に入ってるんですけども、はい寺尾家っていうのは、江戸時代の江尻の宿場の問屋一番の代表車種ですね。

そこにその人にずっと繋がる人になります先祖になるんですね。

そのもんじゅの中に名前小柳津次郎は私の祖先ですっていうふうに書いてあります。

ですので小柳津という名前が名字がもっを持っていて、江藤次郎という名前で、戦国時代の今川きには、清水港で廻船問屋をやっていた、そういう人になりますね時代になるとHDの宿場。

の問屋代表者になっていくということになります。

同時代にGの宿場の中心となった寺尾家の先祖だったんですか、今川駅20時その泉などを中心に廻船問屋を始め、後に承認のための宿や水温業で富を築く礎となった人物が小柳津、当時ロッベンなんですね。

はい一つここで面白いなって思うのは、中世にはチリのつというのがあったんですけども、戦国時代の今川氏の時代、6 3年くらいにははい、巴川の南側の巴川の河口部の南側ですね。

次、清水地域に港が新たに当面営まれて聞いているということがわかります。

確かに、今川義元から東次郎得てた手紙には、清水港と書かれていて、小さな港であった江尻野津から清水地域の港へと場所や規模が変化していることがわかりますね。

椿原さん清水港の商人小柳津東児童について、他にも何か古文書が残っていたりするんでしょうか。

はいこの小柳津田路堂に当ててですね、今川楽器の天分12年ですので、吉本の時代なんですけども世奈地域ですね清水野瀬那智地域に住んでいた武士聖奈と季沙だっていう人か、貞よと記者の佐田を使ったさだよという名前を小柳津と次郎に与えています。

ですのでかなり暗いも高かったんではないかなっていうふうには思うんですけども、児童自体は小柳津という名前も車だよという名前も使ってはいませんねですので本人からすると、武士という感覚はなかったんじゃないかなっていうふうに思います。

その古文書によるとジローは、武士と普通の人との間である中元ってありながら、今川家の武士の名前ももらっていたんですね。

武士の名を名乗ることでくらいが上がるのに、ちょっともったいない気もしてしまいますが、時代ですねこういった半分物資の資格も持ったような商品ですね、こういう方が活躍をしていて、あとですね非常すごく重要なのは、今川家の武士の中にも、いわゆる水軍海賊という言われる武器武士がおりました岡部氏ですねそれから興津氏それから確か北条家から言ってきたような水軍の小さい水軍ですけどね者たちもいたように感じました。

海賊ですか。

現在のイメージでは、地位の低い人が海賊になり、物を奪ったりする、悪い人たちというイメージがありますが、今崖の時代では、くらいの高い武士の中に、ずいぶんとなる人がいたんですね。

なんだかちょっとイメージが違いますねおそらくは、あの清水の港に、こういった水軍とか廻船問屋の人たちが集まっていたのではないかというふうに思われます。

そうなんですね。

清水の港は、廻船問屋と水軍が集まって発展していったということなんでしょうか。

正しいどこに清水地域のどこに港があったのか、同時代の清水美奈等々同じ位置だったのかそれからどういった構造の港があったのかというのはちょっと今ではまだわかっておりません。

はい、ありがとうございました。

あっという間に時間が来ましたので、楽しいお話もここまで。

来週もまたお楽しみにです。



この番組は、

清水をみんなで盛り上げたい、

するが企画観光局、

魅力ある清水をつくる会、

鈴与グループ、

清水港振興の提供でお送りいたしました。

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