ぶらっと清水【第13回】昔の清水で儲かっていた産業って何? / What were the industries that were profitable in Shimizu in the past?
- 山内 真一
- 4月10日
- 読了時間: 15分
【提供】
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
【ぶらっと清水 第12回】
🎙️ぶらっと清水 〜廻船問屋と清水港のヒミツ〜
波音ちゃん:ハロー!清水港擬人化キャラクター、七海波音です♪今日も“ぶらっと清水”のお散歩、スタートしますよ〜!
今回は清水港を歩きながら、前回も話に出てきた「廻船問屋」について、さらに深掘りしていきたいと思います。椿原さん、そもそも“廻船問屋”って、どんな仕事をしていた人たちなんですか?
椿原さん:はい、いい質問ですね。廻船問屋(かいせんどんや)っていうのは、読んで字のごとく“船を巡らせて商いをする問屋”のこと。つまり、船でモノを運ぶ商人なんですよ。
波音ちゃん:なるほど〜。海の上の運送屋さんって感じですね!
椿原さん:そうそう。特に平和な時代には、商品を運んだり売買したりするのが主な仕事。でも、いざ戦になると、水軍として戦にも出る。つまり、戦時と平時で役割を変える「海の武士商人」みたいな存在だったんです。
波音ちゃん:すごい…!商人であり、戦士でもあったんですね。かっこいい!
📜 実は「情報屋」でもあった?
波音ちゃん:ところで、廻船問屋さんって、ただ物を運んでいただけじゃないって聞いたんですけど…?
椿原さん:その通りです。実は、戦国大名の通信係もしていたんですよ。たとえば、「○○の国に異変あり!」っていう情報を、密かに運んだり…。いわば情報の運び屋ですね。
波音ちゃん:すごい信頼がないとできない仕事ですね。それに、税の免除を受けていたって話も聞きました!
椿原さん:そうなんです。信用が厚かったから、大名から特別な任務(密命)を受けることもあったんですね。
🚢 清水の廻船問屋、何を運んでいたの?
波音ちゃん:清水港には、エスパルス通りのあたりに42軒もの廻船問屋が並んでいたって聞きました。当時、どんなものを運んでいたんですか?
椿原さん:まず一番多かったのは、**年貢米(ねんぐまい)**ですね。お米です。江戸時代は税として米を納めてましたから、それを運ぶのが重要でした。
波音ちゃん:へぇ〜、お茶が多いのかと思ってました。意外!
椿原さん:お茶もありましたよ。でも他にも、駿河の名産「紙」や「薪」「炭」、そして**「材木」**など、様々な物が運ばれていました。
🪵 江戸の火事と材木の話
波音ちゃん:材木っていうと、江戸の火事のあとにすぐ使えるように、清水港に集めていたって聞いたことがあります!
椿原さん:そうです!南アルプスで切り出された木を、大井川や天竜川を通って清水に集積していたんです。江戸で火事が起きると、すぐに清水から材木を送る。だから、清水は材木の流通拠点でもあったんですね。
波音ちゃん:その名残で、明治・大正以降も港の周辺には下駄屋さんや製材所、木工所がいっぱいあったんですね〜!
🛶 藤川をさかのぼる!驚きの手段
波音ちゃん:ちょっと気になったんですけど、川って下りは楽でも、上りって大変ですよね?どうやって山の方まで戻っていたんですか?
椿原さん:いいところに気づきましたね!当時は、藤川をさかのぼるために、男3人が船に綱を結びつけて、人力で引っ張り上げていたそうです。70キロ近くの距離を、4〜5日かけて!
波音ちゃん:え〜〜っ!手で!?想像以上に過酷な仕事…!
椿原さん:でも帰り道の船は、海産物や塩、干しアワビなどの“山にはない品”を積んで、山へ戻っていったんですよ。
波音ちゃん:あ、だから海のない地域で干しアワビが名産になってるんですね!納得!
🧱 藤川を整備したのはあの有名人!
波音ちゃん:そういえば、船が通れるように川を整備した「角倉了以(すみのくら りょうい)」って人、教科書に出てきましたよね?
椿原さん:はい、その人です!京都の豪商ですが、徳川家康の命令で藤川の掘削を行ったと言われています。山梨や長野の物資を清水まで運ぶために、流れが悪かった川を通れるようにしたんですね。
波音ちゃん:徳川家康も、清水港をそれだけ物流の要として重視してたってことですね。なんだか誇らしいなぁ!
波音ちゃん:ということで今回は、清水港を支えた“廻船問屋”の活躍に迫りました!モノも情報も、人も木材も――すべてを動かしてきた彼らがいたからこそ、清水がここまで発展してきたんですね。
椿原さん:本当にそう思います。清水の港町には、まだまだたくさんのストーリーがありますよ。
波音ちゃん:来週もまた、新しい清水の魅力を探しに行きましょう!お楽しみに〜♪
【観光案内ガイド風】
🌊 ようこそ!清水へ!
🌊 Welcome to Shimizu!
ここ清水は、ただの港町ではありません。江戸時代から続く物流の拠点としての歴史、そしてそれを支えた人々の知恵と働きが詰まった町なんです。
Shimizu is more than just a port town.It has long served as a center for maritime logistics, dating back to the Edo period, shaped by the ingenuity and efforts of the people who lived here.
🚢 港を支えた「廻船問屋」って知ってますか?
🚢 Ever heard of “Kaisen Donya”?
清水港を歩いていると、かつてこのあたりには42軒もの廻船問屋が並んでいたという話を聞きます。では、廻船問屋って一体どんなお仕事だったのでしょうか?
As you stroll through Shimizu Port, you may hear that 42 shipping merchants, or “Kaisen Donya,” once operated here.But what exactly did they do?
彼らは、船を使って物や人、そして情報を運ぶプロフェッショナルでした。普段は海上輸送を行う「運送屋さん」ですが、実はそれだけじゃないんです。
They were professional maritime transporters of goods, people—and information.By day, they were shippers. But that wasn’t all.
戦のときには、彼らは武士として水軍にも変身していたんです。
During times of war, many of them also served as naval warriors under the feudal lords.
📜 そして彼らは「情報の運び手」でもあった
📜 They Were Couriers of Secrets
当時の大名たちは、廻船問屋に極秘の手紙や戦略情報の伝達まで任せていました。つまり、彼らは物流と情報流通の両方を担う、非常に信頼された存在だったんですね。
Feudal lords often entrusted them with confidential letters and strategic information.They weren’t just movers—they were trusted messengers of the state.
🍚 一番運ばれたのは「お米」だった!?
🍚 The Most Transported Item? Rice!
廻船問屋が扱っていた品物で、意外に一番多かったのが「年貢米(ねんぐまい)」でした。税金代わりに集められたお米を、川や海を使って各地に運んでいたんです。
Surprisingly, the most commonly transported good was tax rice, known as nengu-mai.Merchants delivered it via rivers and coastal routes as part of the tax system of the time.
もちろん、お茶や紙、薪、炭、材木なども運ばれました。特に、江戸で火事が起きたときに備えて材木を清水に集めていたという話も残っています。
Of course, tea, paper, firewood, charcoal, and timber were also transported.In fact, timber was stockpiled here in Shimizu in case of fires in Edo (modern-day Tokyo).
🪵 材木とともに発展した「清水の町工場」
🪵 Wood and the Rise of Local Industry
明治以降も、材木の取引は続き、下駄屋や木工所、製材所が次々と港周辺に誕生しました。今でもその名残を感じられる場所がたくさんあります。
Even after the Edo period, the timber trade flourished.Clog makers, woodworking shops, and lumberyards sprang up around the port—a legacy still visible today.
🛶 川をさかのぼるのは「手作業」だった!?
🛶 Going Upstream? All Manual!
では、川で荷物を下ろしたあと、船はどうやって山に戻ったと思いますか?
So, how did the boats get back upstream after delivering goods?
答えは…人力で引っぱったんです!男3人で船に綱を結び、70kmの川を4〜5日かけてさかのぼったという記録が残っています。
The answer: they pulled them by hand!Historical records describe three men hauling boats upstream for 70 kilometers over four to five days.
🔁 「行きはお米、帰りは干しアワビ」
🔁 Rice Downstream, Abalone Upstream
下りはお米、上りは海の幸――帰り道には、干しアワビや塩などの“山にはないもの”を積んで、山の国へと運んでいきました。
On the way down, they carried rice.On the way back up, they loaded sea products like dried abalone and salt—things not found in the mountains.
🛠️ あの角倉了以が藤川を整備した!?
🛠️ Suminoe Ryo’i—The Master Engineer of the River
船の通行を助けるため、あの**角倉了以(すみのくら りょうい)**が、藤川を掘削して運航しやすいように整備したという記録もあるんです。
To ease boat traffic, Suminoe Ryo’i, a renowned Kyoto engineer, was ordered by Tokugawa Ieyasu to widen and clear the Fuji River.
それだけ家康公も、清水港を戦略的な物流の拠点として重視していたということですね。
This shows how much Tokugawa Ieyasu valued Shimizu as a vital logistics hub in early Edo Japan.
🌅 清水の港町は、今も「運ぶ力」の町
🌅 Shimizu Still Carries the Spirit of Transport
港で船を待つ人々の姿、綱を引く男たちの汗、米や材木を積んだ船の音――ここ清水には、今もその**“運ぶ力”が生きています**。
The port once bustled with waiting merchants, men hauling ships upstream, and the sound of goods being loaded.Even today, Shimizu carries the spirit of transport in its veins.
次に清水港を訪れるときは、ぜひこの歴史の流れに耳を傾けてみてくださいね。そしてまた、新しい物語を見つけに来てください。
Next time you visit Shimizu Port, listen for the whispers of history in the waves.And come discover new stories, waiting to be told.
【放送内容のテキスト文面】
おっはの~ん。
清水港擬人化キャラクター七海波音です。
第一回 ぶらっと清水、始まります。
清水のいろんな場所をぶらっと歩きながら、素敵な魅力を発見して、お伝えしていきます。
この番組は、
清水をみんなで盛り上げたい、
するが企画観光局、
魅力ある清水をつくる会、
鈴与グループ、
清水港振興の提供でお送りいたします。
ハロー清水港擬人化キャラクター七海波音です。
ぶらっと清水始まります。
この番組は、いつかきっとあるよね。
セリアグループ日出で遊ば清水港振興静岡商工会議所の魅力ある清水をつくる会静岡の観光振興を推進する公益財団法人するが企画観光局ラッキー今日でお送りいたします。
今日のお散歩のスタートは、清水港からスタートです。
前回の放送では、中元の冬至を初めとした廻船問屋や水軍、現在の海賊のような人たちによって、清水港は大きくなっていったのではないかというお話をしていただきました。
椿原さん少し気になっていることがあるんですが、このぶらっと清水のお話の中で、何度か出てきている廻船問屋というのは、どんなお仕事をしている人たちのことなんでしょうか、教えてください。
廻船問屋いろいろね、書き言い方はいろいろあるんですけども一般的なものは、海鮮の海は巡るっていう時、それからその船船を巡らせるっていうのかな、そういう問屋っていう書き方が一番一般的ですね読んでそのまま船を使って品物売り買いをする運ぶ、そういう商人のことを言いますね。
よく言われる水軍DFとか海賊って言われる人たちも平和なときには廻船問屋としての仕事をしていた。
いうことですよね。
そうなんですね。
夫婦で商品を運ぶというお仕事をしていたのが廻船問屋なんですかあ。
水路の運送屋さんていう方ですね。
水軍の人たちも、廻船問屋として働いていた方も多いということですが、平和のときは、というのはどういうことですか。
水軍って言われる人たちはその船を使った商いを普段はしていながらいざっていうときに、戦もする。
ていうことですよね。
そっかあくらいの高い武士の身分の人の一部が水軍になっていったと前回のお話にもありましたね。
武士だから戦など何かがあった際には、ただ買いに行き、何もない平和なときは廻船問屋としての仕事をしていたってことなんですね。
それともう一つ、戦国時代とかの廻船問屋に重要な仕事として戦国大名の通信役っていいますかね、今で言ったら連絡食う取次であったりとか、それからいろいろな情報を得てまた知らせるとか、そういう仕事も請け負っていたようですね。
ですのでいろんな税金の免除とか、そういうのもなされていたっていうことらしいです。
はい非常に今で言うと、廻船問屋ですけども、何かしら三つ目、密命っていうかね。
情報を収集するための特別な任務っていうかそういうものも請け負っていたみたいですね。
物だけでなく、情報を運ぶことも廻船問屋の大切な仕事の一つだったんですか。
水路の運送屋さんかつ、情報屋さんですね。
廻船問屋は大名など地位の高い人への情報を伝達する役割を任されるほど信頼されたい。
育ちということですね。
それから、いろんな文献読んでいくと武士である、あの廻船問屋であったりとかそれから完全に廻船問屋として生きた人たちとかいるんですけどもそういう人たちでも、戦のときになると兵糧とか塀を運んだりとかっていうことも、命令をされて行っていたということもあったようです。
船を使えば、多くの人を早く効率的に運ぶことができますもんね。
当時の廻船問屋という仕事は、平時には荷物や情報を運び、戦のときは早く移動できる足として、人や物を運んでいたんですね。
ところで、以前、現在のエスパルス通りのあたりには42件の廻船問屋が並んでいたというお話がありました。
具体的にはどんな商品を扱っていたんでしょうか。
やっぱり名産品である紅茶が多かったんですかお茶はもちろんありましたけどもその他やっぱり一番多かったのは年貢米としてのお米ですね。
巴川の近辺には講習会舞置き場って言っといて今の山梨県の県庁の土地になってる土地がまだあるんですけども、他国のお米をここに持ってきて、蔵に置いたものとかありますよねだから一番多いのが年貢米だったと思いますね。
小米が一番ですか、それは予想外でした。
確かに、江戸時代には税金の代わりに目で収めていたと勉強したことがあります。
それに、当時は収穫したお米の半分以上のリングとして納めなければならなかったそうなので、廻船問屋がたくさんのお米を運んでいたのも納得です。
それから駿河の国で有名だったのがやっぱ紙なんですよね。
紙はするな野上夢ですね水原紙とか杉原って書いて、水原紙なんて言いますけども紙は有名ですね。
それから紙き嬉しい夢ですよねそれから意外とあの知られてないんですけども、薪であったりとかね、炭であったりとかって今の燃料エネルギーに関係するものも多かったですね。
それから忘れてました。
材木を忘れてましたね。
よく材木っていうと、江戸時代に江戸が焼けちゃうと紀伊の国の材木、紀伊国屋が持っていて大儲けしたっていうことが頭に浮かびます。
でもそれよりも酒師駿河の国っての北側に阿部さんっていうかね、部屋南アルプスありますよね。
そこの材木を大井川であったりとか天竜川を伝って、南に卸、川下に下ろしますよね。
清水の港に集積をしておいてが火事になったりするとさあって言って持っていって儲けたんですよね。
お茶やお米だけじゃなくって、様々なものが取り扱われていたのがわかりました。
江戸が火事になったときのための木材を清水の港に用意していたんですか。
船を使えば、陸路に比べて少ない人数で効率的に運ぶことができそうです。
その名残として清水の港の周辺に気を使った産業ってのが明治以降も発達をして、下駄もそうですし、さっきの江戸時代の湿気もそうですよね。
それから紅谷であったりとかそういうすちゃんと製剤を加工する工場ってものすごくたくさん昭和に入ってまで、港の周辺にありましたよねそれもやっぱり廻船問屋の人たちが扱っているまた物品の名残だと思います。
成歩堂廻船問屋のおかげで、港周辺の製材を加工する会社が発展していったと言っても過言ではありませんね。
ちょっとした疑問なんですが、かわいいを使って、山の方から港まで荷物を運ぶのは流れに任せて簡単に運べそうですが、また川上の方まで戻るのは、流れに逆らうので、かなり大変ですよね。
今ですとエンジンがついているので、登っていくのも簡単ですが、当時はどうだったんでしょうか。
さっき言った海の国とか避難の国の年貢米それを運んだ記録はちゃんと残ってます。
下ってくるときはね、川高瀬舟に乗せて吸うとこれるんですけども、帰るときにはちゃんとね、文献に残ってるのは、男3人で藤川ををさかのぼるために綱を高瀬舟に結び付けて引っ張り上げていたそうです。
人力でおよそ今で言った70キロの距離を4日か5日かけて船を引き上げてたそうです。
5日もかけて準備期で引き上げていたんですか。
予想はしていましたが、やっぱりかなり大変なお仕事ですねかなりの重労働には重労働ですよね。
で、その年貢米を清水におろした船を使って、逆に山にないようなもの、例えば押尾であったりとか、そういったものを空になった船で山に持っていく海貫井俊治に持っていくっていうことがあったようです面白いのは、当時の海の国の名産品が特産品の中に確かね、干しあわびとかにば日ってのがあるんですよね。
あれは明らかに海から持っていったものを、特産品として、あちらで加工したりとかしてたっていうことです。
屋根に餅をおろし終わった船も有効活用して、逆に海の物を山の方へと運搬していたんですね。
海から遠い海の地方で干しアワビが有名なのは、そういったわけだったんですかあそのためにですねそういうふうに藤川を、運搬に使うっていうか不安舟生んですね船の運航ですよねそれを可能にするために、皆さんあの角倉良いっていう人をご存知でしょうかね、関西、京都で活躍。
た人なんですけどもその角倉稜威が不藤川の掘削って言いまして、いろんな川といってもいろんな天正岩が出てたりとかして船が取れないようなとことか、ここにあんて曲がっていてなかなか運行が難しいよなっていうとこありますよねそういうのを葉っぱってね、だいぶ今でもダイナマイトでボーンってやって船が通れるように整備した人なんです。
角倉稜威というと、年子日本史の教科書にも載っている有名な人ですよね。
京都で活躍していた人がなぜ静岡の川を整備してくれることになったんでしょうか。
でも実はその人本当はどうも徳川家康に命じられて藤川の解釈に来てるっていうことなんですよちゃんと海の国今の山梨県とか、長野、進士などの国の物品を清水の港まで運ぶためにそういった工事を行ってるっていうことですよね時代の初めに清水港を物流の拠点としてちゃんと整備していたっていうことですよね。
小田時代の徳川家も、京都の専門家をわざわざ静岡まで連れてきて整備をさせるほど、清水港重要無視していたんですね。
物流の拠点として考えられていたとは、改めて、我らが清水港を誇りに思います。
はい、ありがとうございました。
あっという間に時間が来ましたので、楽しい話もここまで。
来週もまたお楽しみにです。
この番組は、
清水をみんなで盛り上げたい、
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魅力ある清水をつくる会、
鈴与グループ、
清水港振興の提供でお送りいたしました。