ぶらっと清水【第25回】伏見さんと清水寺(2) 結婚が残る天井...本堂の回廊から見えるお庭で一休み / A Walk with Mr. Fushimi at Seikenji Temple (2): The Blood-Stained Ceiling and a Relaxing Break in the Garden Seen from the Main Hall Corridor
- 10 時間前
- 読了時間: 23分
<今日のお散歩まとめ>
清見寺の本堂には、琉球使節との関係を示す「永世孝享(えいせこうきょう)」の扁額が掲げられています。
琉球使節に同行していた具志頭王子が駿府城下で亡くなり、徳川家康公の命によって清見寺に葬られたと伝えられています。
琉球使節は江戸からの帰途に清見寺へ立ち寄り、具志頭王子を供養していました。
「永世孝享」には、王子の供養を末永く続けることや、寺と地域の人々に墓守を託す思いが込められているとされています。
本堂の大玄関は、元和二年(一六一六年)に徳川家康公の三女・振姫が寄進したと伝えられる唐破風造りの格式高い玄関です。
大玄関は、大名や皇族、使節など、身分の高い客を迎えるために使われていました。
大玄関の天井には、鎌倉時代初期の戦いで血が付いたと伝えられる板が使われ、「清見寺の血天井」と呼ばれています。
この血天井は、一二〇〇年にこの地で滅んだとされる梶原景時と、戦いで亡くなった人々の供養に関わるものと伝えられています。
回廊には、歴代の住職が残した記録や経典を収めた箱が数多く保管されています。
清見寺は東海道の要所にある格式の高い寺で、室町時代には足利尊氏が山門や仏殿などを整備したと伝えられています。
経蔵の役割を持つ場所には、大般若経が一箱五十冊ずつ、合計六百冊収められています。
毎年一月三日には大般若会が行われ、各地から多くの住職が集まります。
清見寺には約千三百年の歴史があり、火災で失われた資料もある一方、多くの歴史的記録が現在まで守られています。
本堂裏の庭園は、江戸時代初めに幕府の庭師・山本道斎が築いたと伝えられる築山池泉回遊式庭園です。
庭園にはソテツ林、サツキ、心の字をかたどったとされる心字池、モミジや常緑樹などが配置されています。
ソテツは清見寺と琉球との交流に関連して植えられた可能性があると考えられています。
清見寺庭園は昭和十一年に国の名勝に指定され、一年を通して緑豊かな景観を楽しめる文化財となっています。
The main hall of Seikenji Temple displays a large plaque inscribed with the four characters “Eisei Kokyo,” reflecting the temple’s relationship with official envoys from the Ryukyu Kingdom.
Prince Gushichan, who was accompanying a Ryukyuan delegation, is said to have died in the castle town of Sunpu and to have been buried at Seikenji on the instructions of Tokugawa Ieyasu.
Ryukyuan envoys visited Seikenji on their return journeys from Edo to hold memorial services for Prince Gushichan.
The phrase “Eisei Kokyo” is understood to express the intention to continue honoring the prince and to entrust the care of his grave to the temple and local community.
The Great Entrance of the main hall is a formal karahafu-style entrance said to have been donated in 1616 by Princess Furi, the third daughter of Tokugawa Ieyasu.
The entrance was reserved for high-ranking visitors such as daimyo, members of the imperial family, and official envoys.
The ceiling of the Great Entrance contains boards said to have been stained with blood during a battle in the early Kamakura period, giving it the name “the Blood Ceiling of Seikenji.”
The Blood Ceiling is associated with Kajiwara Kagetoki, who is said to have been defeated in this area in 1200, and with memorial prayers for those who died in the conflict.
Many numbered boxes along the corridor preserve records and Buddhist texts left by generations of temple priests.
Seikenji was a high-ranking temple at an important point on the Tokaido, and Ashikaga Takauji is said to have restored its gates and halls during the Muromachi period.
The area serving as a sutra storehouse contains six hundred volumes of the Daihannya Sutra, with fifty volumes stored in each box.
A major Buddhist ceremony known as the Daihannya-e is held every year on January 3, bringing together many priests from different temples.
Seikenji has a history of approximately 1,300 years, and although some records were lost in fires, many historical materials have been preserved.
The garden behind the main hall is said to have been created in the early Edo period by Yamamoto Dosai, a gardener employed by the shogunate.
It is designed as a strolling pond garden with artificial hills and includes a grove of sago palms, satsuki azaleas, a heart-shaped pond known as Shinji-ike, maple trees, and evergreens.
The sago palms may have been planted in connection with Seikenji’s relationship with the Ryukyu Kingdom.
The Seikenji garden was designated a national Place of Scenic Beauty in 1936 and offers a green landscape throughout the year.
【提供】
いつかきっと会えるよね、鈴与グループ。
日の出で遊ばう、清水港振興。
静岡商工会議所の、魅力ある清水を創る会。
静岡の観光振興を推進する、公益財団法人するが企画観光局。
【ぶらっと清水 第25回】
波音ちゃん:さあ、今週も引き続き、興津の清見寺の建物の中を、ぶらっと見ていきましょう。
ご案内いただくのは、清見寺でボランティアガイドをされている伏見さんです。よろしくお願いします。
前回は、本堂に安置されている天皇家や徳川家の位牌、そして朝鮮通信使との漢詩についてご紹介いただきました。
本堂にはさまざまなものが飾られていますが、一番目立つ場所に四文字が書かれた大きな額がありますね。あれには何と書かれているのでしょうか。
伏見さん:あれは「永世孝享(えいせこうきょう)」と書かれた扁額です。
江戸時代の初めから、このお寺は琉球使節と深い関わりがありました。使節の方々が寄進されたものの一つで、大きな板に文字を書いたものを扁額といいます。この「永世孝享」の扁額は、本堂の最も大切な場所に掲げられています。
波音ちゃん:これが「永世孝享」なんですね。
以前の放送では、琉球王国からの使節団も駿府を訪れていたと伺いました。この扁額も、琉球王国とのつながりを示すものなんですね。
この言葉には、どのような意味が込められているのでしょうか。
伏見さん:琉球使節の先遣隊が江戸へ向かう途中、駿府城で家康公に拝謁しました。その後、江戸へ向かう途中で同行していた王子様が、長旅の疲れから駿府城下で亡くなられました。
家康公は「この清見寺に墓をつくって埋葬しなさい」と命じられ、その王子様は清見寺に葬られました。将来、王になる可能性もあった方ですから、琉球にとって清見寺はとても大切なお寺になったわけです。
そのため、江戸での務めを終えた使節は、帰国の途中に必ずこのお寺へ立ち寄り、王子様を供養していました。その供養の一環として寄進されたのが、この扁額です。
「永世孝享」とは、「具志頭(ぐしちゃん)王子の供養をこれからも末永く続けます」という意味です。
ただ、琉球から何度も墓守に来ることはできませんので、お寺や檀家の皆さんに供養をお願いする、そうした思いも込められていると伝えられています。
波音ちゃん:なるほど。本堂には、さまざまな人々と清見寺、そして静岡とのつながりを感じられるものが残されているんですね。
さて、本堂をぐるりと見てきましたが、「永世孝享」の扁額の左側には、とても立派な扉があります。外へ続いているようですが、私たちが入ってきた入口よりも階段などがしっかりしていて、裏口というには立派すぎるように思います。
これはどのような建物なのでしょうか。
伏見さん:ここは、このお寺で最も格式の高い入口、「大玄関」です。
この玄関は、誰でも入れるわけではなく、身分の高い方だけが通ることのできる特別な玄関でした。
元和二年(1616年)に、家康公の三女・振姫様が寄進された建物で、「唐破風(からはふ)」という建築様式になっています。
当時は、大名や天皇、使節など、特別なお客様だけがここから出入りしました。今は開けていますけれどもね。
波音ちゃん:本堂の正面玄関だったんですね。重要なお客様を迎えるのにふさわしい、とても立派な造りです。
伏見さん:実は、この大玄関の天井には、約八百年前の歴史が残っています。
鎌倉時代初期、1200年にこの地で滅んだ梶原景時をご存じでしょうか。NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも登場しました。
戦いで亡くなった方々を供養するため、その時の「血染めの板」が天井材として使われています。血の跡が残っていると伝えられています。
波音ちゃん:ええっ、血の跡が残っているんですか。
戦いで命を落とした方々を供養するためとはいえ、実際に血痕が残る板が使われていると聞くと、少し驚きますね。
伏見さん:切り傷から流れた血が固まった跡と伝えられています。
振姫様が、亡くなった方々の供養のために使うことを許されたそうです。
正式には「清見寺大玄関」、別名「血天井」と呼ばれています。約八百年の歴史が、この天井に残っているわけです。
波音ちゃん:よく見ないと分かりませんが、この木材が八百年前から伝わっていると思うと、歴史の重みを感じますね。
それでは回廊を進んでいきましょう。
さっそく箱がたくさん積まれています。番号も書かれていますが、これは何が入っているのでしょうか。
伏見さん:ここには、歴代の住職が記録した資料などが収められています。
清見寺は格式の高いお寺でしたので、必要な建物がすべてそろっていました。
室町時代、足利尊氏が荒れていたこの寺を建て直しました。東海道の要所にある重要なお寺だからということで、山門や仏殿なども整備したんです。
波音ちゃん:歴史の教科書にも登場する足利尊氏公ですね。
その方が寺を整備したということからも、当時の清見寺がいかに重要なお寺だったかが分かります。
伏見さん:ここは経蔵の役割をしている場所です。
本堂の中に空きスペースがあったので、独立した建物ではありませんが、お経を納める場所として使われています。
箱の中には、歴代の和尚さんが残した記録や、大般若経が収められています。
一箱に五十冊ずつ、全部で六百冊あります。
毎年一月三日には「大般若会」という大法要が行われ、各地のお寺から六、七十人ほどの住職が集まります。その様子はとても壮観です。
波音ちゃん:歴代の和尚さんが残してきたお経や記録が、こうして大切に守られているんですね。
これだけ多くの箱がありますから、歴史的に貴重な資料もたくさん残されていそうです。
伏見さん:そうですね。
清見寺には約千三百年の歴史がありますので、その間のさまざまな記録が残っています。
火災で失われた時代のものもありますが、歴史的な資料が数多く収められています。
波音ちゃん:回廊を進んで、本堂の裏手までやってきました。
立派なお庭が広がっていますね。
伏見さん:今日は雨上がりですので、緑がとてもきれいですね。
奥行きも高低差もある庭ですので、簡単にはまねのできない造りです。
江戸時代初めに、幕府の庭師・山本道斎が「築山池泉回遊式庭園」として築いた庭園です。
歩きながら楽しんでもよく、眺めてもよいという趣旨で造られました。
波音ちゃん:一般の家庭では、とても造れない広さですね。
こんな日に、ゆっくり歩きながら眺めるのも気持ちよさそうです。
伏見さん:左側にはソテツ林があります。
ソテツは本来、この地域には自生しない植物ですが、清見寺は琉球との関係が深かったので、そのつながりから植えられたのではないかと考えられています。
江戸時代には武士階級に人気のあった植物でもあります。
中央にはサツキ、そして「心」の字の形をした心字池があります。
奥の築山には、一部モミジもありますが、多くは常緑樹ですので、一年を通して緑豊かな景色を楽しむことができます。
この庭園は昭和十一年に国の名勝庭園に指定され、国の文化財となっています。
波音ちゃん:季節の花や紅葉だけでなく、一年中緑を楽しめる庭園なんですね。
国の名勝にも指定されたお庭ですから、時間を忘れてゆっくり眺めたくなります。
さて、楽しいお話を伺っているうちに、あっという間に時間となりました。
来週も引き続き、清見寺をご案内いただきます。どうぞお楽しみに。
【観光案内ガイド風】
ようこそ!清水へ!
今回は、興津にある清見寺の本堂から回廊、そして庭園へとご案内します。清見寺に残る建築や文化財をたどりながら、この寺が琉球、武家社会、そして東海道の歴史と深く関わってきたことを見ていきましょう。
まず、本堂の中をご覧ください。ひときわ目立つ場所に、四文字を記した大きな扁額が掲げられています。そこに書かれているのは、「永世孝享(えいせこうきょう)」という言葉です。
清見寺は、江戸時代の初めから琉球使節と深い関わりを持っていました。この扁額も、琉球から訪れた使節に関係するものとして寄進されたと伝えられています。
琉球使節の一行が江戸へ向かう途中、駿府城で徳川家康公に拝謁した後、同行していた具志頭王子が長旅の疲れにより駿府城下で亡くなりました。家康公の命によって王子は清見寺に葬られ、この寺は琉球にとっても大切な場所となりました。
江戸での務めを終えた使節は、帰国の途中に清見寺へ立ち寄り、王子を供養したといいます。「永世孝享」には、具志頭王子の供養を末永く続けるという思いが込められていると伝えられています。また、遠い琉球から墓を守ることが難しいため、清見寺や地域の人々に供養を託す意味も含まれていたとされています。
続いて、扁額の左側にある立派な入口へ進みましょう。こちらは、清見寺で最も格式の高い「大玄関」です。誰でも使うことのできる玄関ではなく、大名や皇族、使節など、特別な客を迎えるための入口でした。
この大玄関は、元和二年、一六一六年に、徳川家康公の三女である振姫によって寄進されたと伝えられています。屋根には、中央が曲線を描く唐破風という建築様式が用いられています。
ここで、天井を見上げてみてください。この大玄関は、別名「清見寺の血天井」とも呼ばれています。
鎌倉時代初期の一二〇〇年、梶原景時がこの地で滅ぼされたと伝えられています。その戦いで血が付いたとされる板が、亡くなった人々を供養するために天井材として使われたといいます。板には、傷口から流れた血が固まった跡が残っていると伝えられています。
よく見なければ分かりにくいものですが、この木材が約八百年前の出来事を伝えていると考えると、長い歴史の重みを感じることができます。
それでは、回廊を進みましょう。途中には、番号の付いた箱が数多く収められています。ここは、経蔵の役割を持つ場所で、歴代の住職が残した記録や経典が保管されています。
清見寺は、東海道の要所にある格式の高い寺でした。室町時代には、足利尊氏が荒れていた寺を再興し、山門や仏殿などを整備したと伝えられています。このことからも、清見寺が当時の社会で重要な位置にあったことが分かります。
箱の中には、大般若経も収められています。一箱に五十冊ずつ、全部で六百冊あるといいます。毎年一月三日には、大般若会という法要が行われ、各地の寺から多くの住職が集まります。
清見寺には約千三百年の歴史があり、その間に記されたさまざまな資料が残されています。火災によって失われたものもありますが、寺の歩みを伝える多くの記録が、今も大切に守られています。
回廊をさらに進むと、本堂の裏手に庭園が広がります。奥行きと高低差を生かした、広がりのある庭です。
この庭園は、江戸時代初めに幕府の庭師・山本道斎によって造られたと伝えられています。築山池泉回遊式庭園と呼ばれる形式で、築山や池を配し、歩きながら、また座って眺めながら楽しむことのできる庭園です。
左手にはソテツの林があります。ソテツは温暖な地域に見られる植物で、この地方に本来自生するものではありません。清見寺が琉球と深い関係を持っていたことから、その交流に関連して植えられた可能性があると考えられています。江戸時代には、武士階級に好まれた植物でもあったそうです。
庭の中央にはサツキが植えられ、「心」の字をかたどったとされる心字池があります。奥の築山にはモミジも見られますが、多くは常緑樹で構成されているため、一年を通して緑の景観を楽しむことができます。
この清見寺庭園は、昭和十一年に国の名勝に指定されました。季節によって変化する植物と、変わらず緑を保つ樹木が組み合わされた庭を眺めながら、清見寺が受け継いできた歴史と文化に、ゆっくりと思いを向けてみてください。
Welcome to Shimizu!
Today, we will explore the main hall, corridors, and garden of Seikenji Temple in Okitsu. As we move through the temple, we will see how its buildings and cultural objects reflect connections with the Ryukyu Kingdom, the warrior class, and the history of the Tokaido.
Let us begin inside the main hall. In one of its most prominent positions hangs a large wooden plaque bearing four Chinese characters. The inscription reads “Eisei Kokyo.”
Seikenji Temple had close ties with official envoys from the Ryukyu Kingdom from the early Edo period onward. This plaque is said to have been presented in connection with those envoys.
While a Ryukyuan delegation was traveling toward Edo, the group stopped at Sunpu Castle to meet Tokugawa Ieyasu. Afterward, a prince accompanying the delegation, Prince Gushichan, died in the castle town of Sunpu following the long journey. On Ieyasu’s instructions, the prince was buried at Seikenji Temple. From that time, the temple became an important place for the people of Ryukyu as well.
After completing their duties in Edo, Ryukyuan envoys are said to have visited Seikenji on their return journey to hold memorial services for the prince. The phrase “Eisei Kokyo” is understood to express the intention to continue honoring Prince Gushichan for generations. It is also said to include a request that the temple and local community care for his grave, since it was difficult for people to travel repeatedly from the distant Ryukyu Islands.
Now, move toward the imposing entrance to the left of the plaque. This is the temple’s most formal entrance, known as the Great Entrance.
It was not intended for ordinary visitors. In earlier times, it was used only by guests of high rank, including daimyo, members of the imperial family, and official envoys.
The Great Entrance is said to have been donated in 1616 by Princess Furi, the third daughter of Tokugawa Ieyasu. Its roof uses a curved architectural style known as karahafu.
Please look up at the ceiling. The Great Entrance is also known as the “Blood Ceiling of Seikenji.”
In the year 1200, during the early Kamakura period, Kajiwara Kagetoki is said to have been defeated in this area. According to tradition, wooden boards stained with blood from the conflict were later used in the ceiling as a memorial to those who died. Marks believed to have been formed by dried blood are said to remain on the boards.
The traces are not easy to identify at first glance. However, knowing that the wood is associated with events from approximately eight centuries ago gives the entrance a strong sense of historical depth.
Let us continue along the corridor. Here, you will see many numbered boxes. This area serves as a storehouse for sutras and records left by generations of priests.
Seikenji was a temple of high status, located at an important point along the Tokaido. During the Muromachi period, Ashikaga Takauji is said to have restored the temple when it had fallen into decline, providing buildings such as gates and halls. This reflects the importance of Seikenji within the society of its time.
The boxes include copies of the Daihannya Sutra. Fifty volumes are stored in each box, making a total of six hundred volumes. Every year on January 3, a major Buddhist service known as the Daihannya-e is held, bringing together many priests from temples in different areas.
Seikenji has a history of approximately 1,300 years. Although some materials were lost in fires, many documents recording the temple’s long history have been carefully preserved.
Continue farther along the corridor, and you will reach the garden behind the main hall. The garden makes use of considerable depth and changes in elevation.
It is said to have been created in the early Edo period by Yamamoto Dosai, a gardener employed by the shogunate. The garden follows a style known as a strolling pond garden with artificial hills. It was designed to be enjoyed both by walking through it and by viewing it from a fixed position.
On the left is a grove of sago palms. These plants are normally associated with warmer regions and are not native to this area. Because Seikenji had close ties with the Ryukyu Kingdom, it is thought that the palms may have been planted in connection with that relationship. Sago palms were also popular among members of the warrior class during the Edo period.
In the center of the garden are satsuki azaleas and a pond known as Shinji-ike, said to resemble the Chinese character for “heart.” Some maple trees grow on the artificial hill at the rear, while many of the other trees are evergreen. This allows visitors to enjoy a green landscape throughout the year.
The Seikenji garden was designated a national Place of Scenic Beauty in 1936. As you look across the seasonal plants and the evergreen trees, take a moment to consider the history and culture that have been preserved here through the centuries.
【放送内容のテキスト文面】
さあ、今週も引き続き、興津の清見寺の建物の中をぶらっと見ていきましょう。
解説していただくのは、この清見寺でボランティアガイドをしていらっしゃる伏見さんです。
よろしくお願いします。
では、前回の放送では、本堂の中にあるもの、天皇家や徳川家の位牌のことや、朝鮮通信使との漢詩のことについて見てご説明いただきました。
いろいろなものが飾られている中で、一番目立つところに四つの文字が書かれた額ですかね、が限られているんですが、これは何と書かれているんでしょうか。
これはですね、江戸時代の初めからはですね、琉球の施設というね、ここの名代の方がこのお寺には深く関係しております。
その方々がこのお寺にですね、寄進していったものの一部で、大きな扁額板に文字を書いてあるようなものを扁額と言いますけども、永世孝享(えいせこうきょう)と書いてある扁額が、このお寺さんの一番大事なところにですね、高々と大きく描かれたものが展示されております。
これが永世孝享なんですね。
以前の放送で琉球王国からの使節団も駿府の国を訪れていたというお話がありましたね。
琉球王国との繋がりを示すものとして本堂の一番目立つところに飾ってあるんですね。
こちらの言葉にはどのような意味が込められているんでしょうか。
琉球使節の先遣隊がですね、江戸へ向かう途中、駿府城においでになる家康公にですね、拝謁した後、江戸へ向かうわけですけども、同行してきてくれた王子様がですね、長旅の疲れで、この駿府城下でお亡くなりになりましてね、家康公がこの清見寺さんにね、お墓を作って埋葬してあげなさいっていうことで、王子様ですけどね、将来王様になる可能性もあった方だと思うんですが、その方がこの清見寺さんに埋葬されていますので、琉球にとってはこのお寺って大変大切なお寺になっているわけです。
それで江戸で御用が済んだ使節の方はですね、お帰りのとき必ずこのお寺によって、亡くなられた王子様の供養をしてくると、その一環としていただいた扁額です。
永世孝享、亡くなられた王子さんの名前は、具志頭(ぐしちゃん)っていう名前がついてますけど、その方の供養はずっと続けますよ。
しかし、その時代、琉球からここへ出てきて王子様のね、お墓の草取りとかお水あげたり、お供物あげたり、お経をあげたりすることができませんので、事実上できませんのでね、お寺さんとかあるいはご近所の方は檀家さんにですね、そういうことをちょっとお願いすると、そんなような意味が含まれているそうでございます。
なるほど。
この本堂には、いろいろな方と、清見寺、静岡との繋がりがあるんだということがわかるものをたくさん見ることができますね。
では、ぐるっと本堂を一周見てまいりましたが、先ほどの永世孝享の扁額の左手に大きな立派な扉がありますね。
外に繋がっているようですが、私達が入ってきた入口より、階段などの机がしっかりしています。
裏口というには立派すぎる気がするんですが、これはどういった意図で作られているんでしょうか。
これはなぜこんなしっかりしてるかっていうと、これはこのお寺の玄関の一番大切なところ、大玄関という建物です。
大玄関、これはある身分の人でないと入れないってそういう玄関なんですね。
ここはですね、家康さんのね、3番目のお姫様に振姫(ふりひめ)様って方がおいでになりますけど、この方がですね元和2年1616年にですね、寄進していただいた唐破風屋根が、唐破風という建築様式ですけどね、そういった建物なんですよ。
これはもう特定な、大名さんとか天皇様とかね、使節の方とか、そういう方しか入れない。
ところが今はですね開けますけど。
ここが本堂のメインの玄関だったんですか。
確かに重要なお客様をお迎えするのにふさわしいくらいの豪華な作りですね。
実はこの玄関の天井にはですね、今から800年前の歴史に戻る梶原景時、一昨年、鎌倉殿の13人というNHKの大河ドラマありましたね。
あの13人のうち最も早くこの地で滅びた方です。梶原景時が滅ぼされたのは鎌倉時代初期(1200年)。
戦いの後、滅びたものの供養っていうことでね、血染めの板が天井に使ってある。血の跡がここにあるんですよね。
ひえ~、血の跡が残されているんですか。
戦いで命を落とした方の供養のためということですが、実際に血痕が残っている板が使われていると知ると、なんだかちょっと怖いですね。
切り傷から流れた血がですね固まったものだと伝わっております。
お姫様が滅びたものの供養ということでね、血染めの板を使っていいよってことで、ここに使ってあります。
正式には、清見寺の大玄関、別名、清見寺の血天井と言っております。
800年の歴史がここにあるんですね。
よく見てみないとわかりづらいですが、使われている木材が800年も前に使われていたものだと思うと、歴史を感じますね。
はい、では、回廊進んでもっと見ていきましょうか。
早速気になる箱がたくさん積んでありますね。
数字が書いてありますが、これは何が入っているんですか。
これはですね、このお寺の和尚さん、住職さん初め和尚さんがですね、記録したものがここに収蔵されていると聞いております。このお寺さんはですね、大変格式の高いお寺ですので、お寺で必要な建物は全部揃ってるんですよ。
これは足利尊氏という方がですね、1350年台近辺、このお寺が荒れている時代がどうやったらしい。
でもここは東海道の要所の地だっていうことで、立派なお寺に建て替えしてくれたんですね。
その折、この寺は立派なお寺だからということで、山門や御仏前とかね、そういったものを全部建ててくれたんですよね。
歴史の教科書にも出てくる、鎌倉時代から室町時代に活躍した有名なあの足利尊氏公ですか。
そんな方がわざわざお金を出して施設を整えたということは、いかに当時の日本の中でも、この清見寺が重要なお寺だったか、わかりますね。
その中でいうと、ここはお経の蔵です。ちょうど本堂に空きスペースが多分あったんでしょうね。独立した形ではないのですが、どうやらお経の蔵の役目をしてるらしいんですよね。
これがそういった和尚さんたちがね、記録したそういったものが収蔵されている。
これ50冊ずつ入っているんですよ。
これね、大般若経という、すごいお経の本がですねこ、この中に全部で600冊入っています。
これはですね、このお寺さんは、1月の3日の日に、大般若会(だいはんにゃえ)という大法要がありまして、そうすると、各地のお寺の住職さんがここへ出てきてくれてですね、その景色は壮観ですね、六、七十人くらい集まるんでしょうかね。
代々の清見寺の和尚さんが残してきたお経の本がこちらに収蔵されているんですか。
600冊も収容している箱以外にもかなりの数の箱があるので、それに全部本が入っているとなると、中には歴史的に価値のある本もありそうですね。
そうですね。お父さんはね、さっき言ってみての方から数えますと1300年の歴史がありますのでね、そういった間のいろんなね、ことが記録されたものは残っていますね。家事で焼けてしまったので、ある時代以前のものはなくなっちゃったかもしれませんけども、そういったね、歴史的なものいっぱい入ってるとこですよね。
さあ、回廊を進んでまいりまして、本堂もちょうど裏手のところまでやってきました。
立派なお庭が見えますね。
今、ご覧いただいてますけど、雨上がりでね、緑がすごく綺麗に見えるお庭だと思います。
奥行きと高低差がすごいあるお庭ですから、簡単にものまねはできませんね。
このお庭はですね、江戸時代の初めに山本道斎っていう幕府の庭師がですね、「築山池泉回遊式庭園」(つきやまちせんかいゆうしきていえん)という形式で、歩いてもらってもいいよ、見てもいいよという趣旨で作られたお庭ということになります。
確かに一般の家庭には絶対に作るない広さですね。
今日みたいに晴れた日にぶらっと歩きながら見て回るのにちょうどいいかもしれません。
左の方角がソテツの林になってますがソテツこのソテツというのは、温かい地方に自生するもので本来は日本のこの辺にはないものなんですけど、ここにあるっていうことは、このお寺さんは琉球との関係ありますのでね、多分そういった関係からねあってるのかなと思います。
江戸時代にはですね武士階級には大変人気のあった植物なんだそうでございます。
左の半分がソテツの話。
琉球のような遠くの温かい地域からわざわざソテツを持ってきて植えたということですね。
こんなところにも、琉球との繋がりを発見です。
真ん中がサツキです。
そして、心という字の形に見える「心字池(しんじいけ)」があります。
後ろの小山はですね一部はモミジになってますけど、それ以外は、常緑樹で、いつ来ても、緑がいっぱい、目の休まる気分の落ち着くね、素晴らしい癒しの風景を身近に感じていただけます。
清見寺のお庭は、大変立派だねっていうことで。昭和11年にね、当時の文部省による国の名勝庭園に指定されておりますので、国の文化財っていうことになります。
季節を感じられる植物もありつつ、1年を通して緑が茂る木もあって、他の季節でも楽しめるお庭ですね、
国にも認められるほどの立派なお庭、ゆっくり眺めていたいです。



