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魅力ある清水を創る会
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ぶらっと清水【第26回】伏見さんと清水寺(3) 橋になった芭蕉句碑 150年前の貴重な落書き 家康公 / A Walk with Mr. Fushimi at Seikenji Temple (3): The Bashō Monument That Became a Bridge,150-Year-Old Graffiti, and the Palanquin Never Returned

  • 9 時間前
  • 読了時間: 29分




<今日のお散歩まとめ>


  • 興津の清見寺には、橋になった芭蕉句碑、動物を表す庭石、150年以上前の落書き、徳川家康公ゆかりの乗輿などが残されています。

  • 芭蕉句碑には「西東(にしひがし) 憐れさ同じ 秋の風」と刻まれていますが、文字の面を下にして、庭の石橋として使われています。

  • 句碑は元禄の初めごろに興津宿へ建てられましたが、不況の原因とされて海へ捨てられそうになり、清見寺の住職が引き取ったと伝えられています。

  • 清見寺の建物内には、句碑を持ち上げて泥を落とした際に撮影された、文字の刻まれた面の写真があります。

  • 庭師の山本道斉が造ったとされる庭は、5種類の木と3つの動物を表す石が置かれた「五木三石のお庭」と呼ばれています。

  • 五木は松・柏・梅・柿・蜜柑で、現在は柏が1本残っています。三石は、牛を表す臥牛石、虎を表す睡虎石、亀を表す遊亀石です。

  • 家康公は松平竹千代と呼ばれていた幼少期、清見寺でも教育を受けたとされますが、「家康手習いの間」は後世に顕彰のため造られた部屋です。

  • 壁から天井まで書かれた観音経は、幕末の修行僧による落書きと伝えられ、150年以上を経た現在も残されています。

  • 観音経の文字は、「念彼観音力」という言葉が同じ位置に並ぶよう計画的に配置され、落書きでありながら書やアート作品のようにも見えます。

  • 清見寺には、家康公が戦場の視察に使ったとされる、小型軽量で一人乗りの「乗輿」も保存されています。

  • 乗輿は、大雨の際に駿府城から帰る住職へ家康公が貸したとされますが、正式な贈り物だったのか、借りたまま返されなかったのかは分かっていません。



  • Seikenji Temple in Okitsu preserves several unusual historical features, including a Bashō monument used as a bridge, animal-shaped garden stones, graffiti more than 150 years old, and a palanquin associated with Tokugawa Ieyasu.

  • The Bashō monument is inscribed with the haiku, “East and west, the same sorrow in the autumn wind,” but its inscribed surface faces downward because the stone is now used as a garden bridge.

  • The monument was reportedly erected in the Okitsu post town around the beginning of the Genroku era, but was blamed for an economic downturn and nearly thrown into the sea before being taken to Seikenji.

  • A photograph displayed inside the temple shows the monument’s hidden inscription after the stone was lifted and cleaned.

  • The garden, said to have been created by Yamamoto Dōsai, is known as the “Garden of Five Trees and Three Stones.”

  • The five trees were pine, oak, plum, persimmon and mandarin orange, while the three stones represent an ox, a tiger and a turtle.

  • Ieyasu is believed to have studied at Seikenji during his childhood as Matsudaira Takechiyo, although “Ieyasu’s Writing-Practice Room” was built later to commemorate him.

  • Text from the Kannon Sutra covers the walls and ceiling near the room and is said to have been written as graffiti by a trainee monk near the end of the Edo period.

  • The phrase “Nenpi Kannonriki” was deliberately arranged in the same position throughout the writing, giving the graffiti the appearance of calligraphy or an artwork.

  • Seikenji also preserves a small, lightweight, single-person palanquin said to have been used by Ieyasu while inspecting battlefields.

  • Ieyasu reportedly lent the palanquin to a Seikenji priest returning from Sunpu Castle in heavy rain, but it is unclear whether it was later given to the temple or simply never returned.

  • Seikenji preserves many curious and deeply human stories that have emerged throughout its long history.


【提供】



【ぶらっと清水 第26回】


橋になった芭蕉句碑

波音ちゃん:

さあ、今週も、興津の清見寺をボランティアガイドの伏見さんと一緒にぶらっとしていきます。

現在、私たちは本堂の裏にあるお庭を眺めながら、一休みしていたところです。広いお庭には、いろいろなものがありますね。

気になるのが、「芭蕉句碑」と書かれている看板です。そのようなものが見当たりませんが、句碑はどこかへ持っていかれてしまったんですか。


伏見さん:

芭蕉の句碑ということですが、石碑というのは普通、立っているものですよね。立てた石の正面に文字を刻み、何の石碑なのか分かるようにします。

ところが、このお寺では石橋にしてあるんです。ですから、句碑と言われても、皆さん分からないですよね。


波音ちゃん:

この隣にある石橋が、芭蕉句碑なんですか。ただの橋かと思っていました。


伏見さん:

実は、これにはいろいろな言い伝えがあります。

元禄の初めといいますから、1680年代から1700年代の初めぐらいでしょうか。興津宿のお金持ちの方が、すでに作られていた芭蕉の句を刻んだ石碑を、興津の宿場に建てたそうです。

句碑には、「西東(にしひがし) 憐れさ同じ 秋の風」と刻んであったそうです。

ところが、宿場町に建てたあと、不況や不景気が襲ってきました。すると、「この句が原因ではないか」と、責任を押しつけられてしまったんですね。

町の人たちが、せっかく建てた石碑を海へ捨てようとしていたところ、当時の住職が通りかかりました。「それなら、わしがもらっていくよ」と持ち帰り、句が刻まれている面を下にして、石橋にしたんです。


波音ちゃん:

不況をこの句のせいにするなんて、完全に言いがかりですね。

もともとは立派な石碑だったはずなのに、今の形では、句碑だということは絶対に分かりませんね。


伏見さん:

ですから、句碑を立てない限り、「西東(にしひがし) 憐れさ同じ 秋の風」という句は分からないことになっています。

住職が、興津の町がにぎやかになり、もうそのようなことが起きない時代になったら立てようと思って持ってきたのかどうかは分かりません。今も、そのままになっています。

この先には、句碑を掘り出して泥などをきれいにし、撮影した写真があります。本当に句碑なのかを調べる学術調査などを行った機会があったのでしょうかね。ぜひ見てください。


波音ちゃん:

石碑をもらってきて、橋にしてしまうという発想は、ちょっと面白いですね。


五木三石のお庭

波音ちゃん:

橋の向こう側に、もう一つ看板があります。「臥龍梅」の「臥」に、牛、石と書かれています。「臥牛石(がぎゅうせき)」と読むのでしょうか。これは、どのような意味のある石ですか。


伏見さん:

このお庭は、山本道斉(やまもとどうさい)という庭師が造ったとされています。

家康公は、このお寺でも、今川家の和尚である丹下雪斎(たんげせっさい)から教育を受けたことになっています。

秀忠公に将軍職を譲り、大御所として駿府へ戻ってきたあと、このお寺にも何度も来ています。その折に、「このお庭を改修しよう」ということになったそうです。

家康公は、5種類の木と、3つの動物の名前がついた石を駿府城から持ってきて、この庭に配置しました。そのため、このお庭には「五木三石(ごぼくさんせき)のお庭」という別名があります。


波音ちゃん:

なるほど。この臥牛石は、その三石のうちの一つということですね。


伏見さん:

五木というのは、松、柏、梅、柿、蜜柑です。正面に小さな木が1本見えると思いますが、今は、あそこに柏が1本残っています。

三石には、動物の名前がついています。牛、虎、亀という名前の石が、この庭に配置されています。

ただ、表示板があるのは、この臥牛石だけです。「和尚さん、早くほかの石にも建ててくださいよ」という要望があるのですが、まだ建っていないんですよね。


波音ちゃん:

牛、虎、亀ですか。案内板がなければ絶対に分からないので、ぜひつけていただきたいですね。

ところで、臥牛石というのは、どのような意味ですか。


伏見さん:

臥牛石は、伏せた牛の姿に似ている石です。見えない部分もありますが、この石を掘ったら、寝そべっている牛の背骨のように見えるのではないでしょうか。そのような形をした石だと思います。

虎の石は「睡虎石(すいこせき)」といい、眠った虎を表しています。亀の石は「遊亀石(ゆうきせき)」といい、遊ぶ亀を表しています。

この3つの石が配置されているため、「五木三石のお庭」という別名を持っているんです。


波音ちゃん:

臥牛石、睡虎石、遊亀石の3つが、きちんと意図を持って置かれているんですね。

頑張って目を凝らしてみると、そう見えなくもありません。牛が伏し、虎が眠り、亀が遊んでいるお庭と考えると、なんだか楽しいですね。

では、休憩は終わりにして、建物の中を進んでいきましょう。


家康手習いの間

波音ちゃん:

少し進むと、「家康手習いの間」と書かれたお部屋があります。もしかして、ここに家康公がいたんですか。


伏見さん:

ここには「家康公手習いの間」がありますが、家康公といっても、まだ松平竹千代だった時代のお話です。

竹千代は、8歳から19歳まで、駿府の今川家に人質という形でいました。幼少期には、このお寺でも教育を受けています。

今川家の丹下雪斎という方が、このお寺の住職を兼務していましたので、ここでいろいろな教育を受けたわけです。

ただし、この部屋は、あとから家康公を顕彰するために建てられたものだと聞いています。ですから、この部屋で勉強したわけではありません。

このお寺のどこかで勉強したことは確かです。しかし、この部屋は三畳一間ですから、本当に人質だったという印象を受けてしまいますよね。


波音ちゃん:

このお部屋にいたわけではないんですね。

確かに、部屋を見ると少し狭くて、本当に人質に取られているような感じがします。

では、次へ進んでいきましょう。


150年以上前の落書き

波音ちゃん:

手習いの間のすぐ隣に、たくさんの文字が書かれている場所があります。天井まで文字がびっしりですが、これは一体何ですか。


伏見さん:

この墨書きの文字を見て、「朝鮮通信使や琉球使節の方が書いたものですか」と質問されることがあります。

実は、これは「観音経」という経本、お経の文字なんです。

住職に伺ったことがありますが、幕末には、このお寺に修行僧がいたそうです。そのうちの一人が、観音経をここに落書きしたんだそうです。

落書きだから消そうかという話もあったようですが、せっかく書かれたもので、なかなか立派だから残しておこうということになったそうです。

幕末から現在まで、およそ150年です。ですから、150年以上前に書かれた、観音経の経文ということになります。


波音ちゃん:

これは、ただの落書きなんですか。

きちんとした文字で書かれているので、偉い人がいつでも見られるように、壁に書いた貴重なものかと思ってしまいました。

ただ、150年の歴史がある落書きと考えると、貴重な落書きですね。


伏見さん:

大事なところは、「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」です。

ずっと同じ位置に「念彼観音力」が来るように配置して書かれています。なかなか作為的に書いたものだろうと思います。

「念彼観音力」は、観音様にお願いをすると、その人を危険などから救ってくれる、おまじないの言葉だそうです。

何かあったら、「念彼観音力」と叫んでみてください。


波音ちゃん:

ただの落書きでも、書き方にはきちんとしたこだわりがあったんですね。一つのアート作品のように見えてきました。

言われなければ、これが落書きだとは思わないので、面白いポイントですね。

では、その先へ進んでみましょう。


伏せられた句碑の写真

波音ちゃん:

写真が飾られていますが、これは何でしょうか。


伏見さん:

これが、芭蕉の句碑をひっくり返し、きれいにして撮影した写真です。

「西東(にしひがし) 憐れさ同じ 秋の風」と刻まれています。

先ほどお話ししたような理由で、文字が刻まれた面を伏せて、石橋にしてあります。

「興津の町が繁盛したら立てますよ」と言ったかどうかは分かりませんが、今はまだ伏せられたままです。

興津には寒ざくら祭りがありますが、1万人ぐらいでは、まだ立たないということでしょうかね。

波音ちゃん:先ほどお話があった、伏せられている芭蕉句碑の表面の写真ですね。

きれいにすれば、きちんと石碑として飾れそうです。橋ではなく石碑として建てられるように、興津の町へ、もっともっと人を呼んでこないといけませんね。


家康公から借りた乗輿

波音ちゃん:

上の方に目を向けると、板張りの小型のお神輿のようなものが飾られています。「乗輿(のりこし)」と読むのでしょうか。


伏見さん:

これは、家康公が戦の際、現場を視察するために乗った一人乗りの乗輿だそうです。

陣形を見ながら、「もっとこちらへ寄れ」などと指示をしたのだと思います。

その時代には、すでに鉄砲がありました。そのため、板張りで小型軽量にし、迅速に動けるようになっています。

今でいう御駕籠(おかご)のようなものでは、すぐに発見されてしまいます。身動きが取りにくく、狙われる標的にもなってしまいますので、小型軽量の一人乗りにしたということらしいです。


波音ちゃん:

戦の際に、家康公が実際に使われていたものなんですね。

確かに少し窮屈そうですが、この大きさなら、戦の最中でも機敏に動けそうです。


伏見さん:

これがなぜ、ここにあるのかというお話です。

当時、このお寺の住職は、家康公と対等に話ができるほど偉い方でした。駿府城へ家康公と話をするために出かけたところ、帰るときに大雨になってしまったそうです。

今の時代なら、タクシーで30分ほどで来られます。しかし、その時代には歩くしかありません。距離は15キロほどありますから、3時間から4時間かかります。

住職が困っていると、家康公が「これに乗って帰りなさい」と、付きの者をつけて帰してくれたそうです。

本来なら、返さなければなりませんよね。それが今もここにあるということは、もらってしまったのでしょうか。そこは、ちょっと分かりません。

「家康公から頂いた」として箔をつけるため、そのまま置いたのかもしれませんね。


波音ちゃん:

今も、家康公から借りたまま、ここにあるということですね。

家康公からもらったとなれば自慢できますが、借りたものなら、いつかは返さないといけませんね。

伏見さん、ありがとうございました。





【観光案内ガイド風】

ようこそ!清水へ!


今回ご紹介するのは、興津にある清見寺です。

清見寺には、橋になった芭蕉の句碑、動物の姿に見立てた庭石、150年以上前の落書き、そして徳川家康公が使ったとされる乗り物など、少し不思議で興味深い歴史が残されています。

本堂の裏にあるお庭には、「芭蕉句碑」と案内されているものがあります。ところが、周囲を見ても、文字の刻まれた石碑は立っていません。

実は、お庭に架かる石橋そのものが、芭蕉の句碑なのです。

この句碑には、

「西東(にしひがし) 憐れさ同じ 秋の風」

という句が刻まれています。しかし、文字のある面が下を向いているため、橋として置かれたままでは、その句を見ることはできません。

元禄の初め、1680年代から1700年代の初めごろ、興津宿の裕福な人物が、芭蕉の句を刻んだ石碑を宿場に建てたと伝えられています。

ところが、句碑を建てたあと、興津の宿場が不況に見舞われました。町の人たちは、その不況を句のせいにして、石碑を海へ捨てようとしたそうです。

その石碑を清見寺の住職が引き取り、句の刻まれた面を下にして、石橋にしました。興津の町が再びにぎわったら石碑として立てるつもりだったのかもしれませんが、今も橋のまま残されています。

清見寺の建物の中には、句碑を持ち上げ、泥などをきれいにしたときに撮影された写真があります。写真では、橋の下に隠れている文字を確認できます。

興津では寒ざくら祭りが開かれ、およそ1万人が訪れます。それでも、句碑を再び立てるには、まだにぎわいが足りないということでしょうか。橋が石碑に戻る日は、これからやって来るのかもしれません。

この石橋があるお庭は、庭師の山本道斉(やまもとどうさい)が造ったとされています。

徳川家康公は、松平竹千代と呼ばれていた幼少期、今川家の和尚である丹下雪斎(たんげせっさい)から、この清見寺でも教育を受けたと伝えられています。

家康公は、秀忠公に将軍職を譲り、大御所として駿府へ戻ったあとも、清見寺を何度も訪れました。その際にお庭が改修され、5種類の木と、3つの動物の名前を持つ石が、駿府城から運ばれて配置されたそうです。

そのため、このお庭には「五木三石(ごぼくさんせき)のお庭」という別名があります。

五木は、松、柏、梅、柿、蜜柑です。現在は、このうち柏が1本残っています。

三石は、牛、虎、亀を表しています。

「臥牛石(がぎゅうせき)」は、伏せた牛の姿に似た石です。地面の下に隠れている部分まで掘り出すと、寝そべっている牛の背骨のように見えるのかもしれません。

「睡虎石(すいこせき)」は、眠った虎を表しています。「遊亀石(ゆうきせき)」は、遊ぶ亀を表しています。

現在、案内板が設けられているのは臥牛石だけですが、3つの石は、それぞれ意図を持って庭の中に配置されています。

牛が伏し、虎が眠り、亀が遊んでいる。そう考えながらお庭を眺めると、石の形や庭の景色も少し違って見えてきます。

清見寺の建物の中には、「家康手習いの間」と呼ばれる、三畳一間の小さな部屋もあります。

家康公は、まだ松平竹千代と呼ばれていた8歳から19歳まで、駿府の今川家に人質という形で暮らしていました。その間、この清見寺でも教育を受けたとされています。

ただし、実際にこの部屋で勉強していたわけではありません。この部屋は、のちに家康公を顕彰するために造られたものと伝えられています。

家康公が清見寺のどこかで学んだことは確かとされていますが、その場所が、この「家康手習いの間」だったわけではないのです。

三畳一間という部屋の小ささから、人質として過ごした家康公の幼少期を想像してしまいますが、現在の部屋は後世に造られたものです。

その近くには、壁から天井まで、墨でたくさんの文字が書かれた場所があります。

一見すると、朝鮮通信使や琉球使節が残した文字のようにも見えますが、書かれているのは「観音経」というお経の経文です。

幕末、この寺にいた修行僧の一人が、観音経を落書きとして書いたと伝えられています。

落書きなので消そうという話もあったそうですが、文字がなかなか立派であったことから、そのまま残されました。幕末に書かれたものですから、150年以上の歴史を持つ落書きということになります。

文字の並びにも工夫があります。

経文の中にある「念彼観音力(ねんぴかんのんりき)」という言葉が、同じ位置にそろうよう、意図的に配置されています。

「念彼観音力」は、観音様に願うことで、危険などから救っていただくという意味を持つ言葉だそうです。何か危険なことがあったら、「念彼観音力」と唱えてみるとよいかもしれません。

落書きと聞かなければ、正式な書や、一つのアート作品のようにも見えます。150年以上前の修行僧も、文字の並びを考えながら書いていたのでしょう。

清見寺には、徳川家康公が戦の際に使ったとされる「乗輿(のりこし)」も残されています。

乗輿は、板張りで造られた小型軽量の一人乗りの乗り物です。家康公は戦場の様子を視察し、陣形を確認しながら、兵に指示を出すために使ったと考えられています。

当時は、すでに鉄砲が使われていました。大きな御駕籠では発見されやすく、身動きも取りにくいため、標的になってしまいます。そこで、小さく軽量で、素早く移動できる乗輿が使われたようです。

では、家康公が使った乗輿が、なぜ清見寺にあるのでしょうか。

当時の清見寺の住職は、家康公と対等に話ができるほど、高い立場にあったと伝えられています。

ある日、住職が家康公と話をするために駿府城へ出かけました。ところが、帰るころに大雨になってしまったそうです。

駿府城から清見寺までは、およそ15キロあります。現在なら車で30分ほどですが、当時は歩いて3時間から4時間ほどかかりました。

困っていた住職に、家康公は乗輿を貸し、付きの者と一緒に清見寺へ帰したと伝えられています。

本来なら返さなければならない乗輿が、今も清見寺に残されています。家康公から正式に贈られたものなのか、それとも借りたまま返さなかったものなのか。そのことは、はっきり分かっていません。

橋になった芭蕉句碑、牛や虎、亀の姿を表す庭石、150年以上前の貴重な落書き、そして、家康公から借りたままかもしれない乗輿。

清見寺には、長い歴史の中で生まれた、少し不思議で人間味のある物語が残されています。清水を訪れた際には、ぜひ興津の清見寺にも足を運んでみてください。



Welcome to Shimizu!

This guide introduces Seikenji Temple in Okitsu.

Seikenji preserves a number of unusual and fascinating stories, including a Bashō haiku monument transformed into a bridge, garden stones representing animals, graffiti more than 150 years old, and a small palanquin said to have been used by Tokugawa Ieyasu.

In the garden behind the temple’s main hall, there is a sign identifying a Bashō haiku monument. Yet no upright stone monument with a visible inscription can be found nearby.

The stone bridge in the garden is the monument.

The following haiku is carved into the stone:

“East and west,the same sorrowin the autumn wind.”

The inscribed surface faces downward, so the verse cannot be seen while the stone is being used as a bridge.

Around the beginning of the Genroku era, from the 1680s to the early 1700s, a wealthy resident is said to have erected the Bashō monument in the Okitsu post town.

After the monument was raised, however, Okitsu suffered an economic downturn. The townspeople began to blame the poem for their misfortune and reportedly tried to throw the monument into the sea.

The head priest of Seikenji took the stone back to the temple. Its inscribed side was placed face down, and the monument was turned into a bridge.

Perhaps there was an intention to raise it again when Okitsu became prosperous. Whatever the original plan may have been, the monument remains a bridge to this day.

Inside the temple is a photograph taken when the stone was lifted and cleaned. The photograph reveals the inscription hidden beneath the bridge.

Okitsu now holds a winter cherry blossom festival that attracts around ten thousand visitors. Perhaps even that is not yet enough prosperity for the monument to be raised again. The day may still come when the bridge returns to its original role as a haiku monument.

The garden containing this stone bridge is said to have been created by Yamamoto Dōsai.

Tokugawa Ieyasu, who was known as Matsudaira Takechiyo during his childhood, is believed to have received part of his education at Seikenji from Tange Sessai, a monk associated with the Imagawa family.

After transferring the title of shogun to Hidetada and returning to Sunpu as a retired shogun, Ieyasu continued to visit Seikenji.

During this period, the garden was renovated. Five kinds of trees and three stones named after animals were reportedly brought from Sunpu Castle and placed here.

For this reason, the garden is also known as the “Garden of Five Trees and Three Stones.”

The five trees were pine, oak, plum, persimmon and mandarin orange. Of these, one oak tree remains today.

The three stones represent an ox, a tiger and a turtle.

Gagyūseki, or the Recumbent Ox Stone, resembles an ox lying down. If the portion hidden beneath the ground were uncovered, it might look like the back of a resting ox.

Suikoseki, or the Sleeping Tiger Stone, represents a sleeping tiger. Yūkiseki, or the Playing Turtle Stone, represents a turtle at play.

Only the Recumbent Ox Stone currently has an information sign, but all three stones were deliberately placed within the garden.

An ox lies down, a tiger sleeps and a turtle plays. With these images in mind, the shapes of the stones and the character of the garden may begin to look a little different.

Inside Seikenji is a small, three-tatami room known as “Ieyasu’s Writing-Practice Room.”

From the age of eight until nineteen, the future Tokugawa Ieyasu lived in Sunpu under the control of the Imagawa family as a hostage. During those years, he is believed to have received part of his education at Seikenji.

He did not, however, study in this particular room. The room is said to have been built later to honour and commemorate him.

Although Ieyasu is believed to have studied somewhere within the temple, this was not the actual place where those lessons took place.

The room’s small size can easily evoke an image of Ieyasu’s childhood as a hostage. The room itself, however, was created in a later period.

Near the room is an area covered with ink writing that extends from the walls to the ceiling.

At first glance, the writing might appear to have been left by members of a Korean diplomatic mission or envoys from the Ryukyu Kingdom. It is, in fact, text from the Kannon Sutra.

According to temple tradition, a trainee monk living at Seikenji near the end of the Edo period wrote the sutra on the walls as graffiti.

There was once some discussion about removing it. Since the writing was considered quite impressive, it was left in place. It has now survived for more than 150 years.

The arrangement of the characters is also significant.

The phrase “Nenpi Kannonriki” appears repeatedly in the same position, suggesting that the layout was carefully planned.

The phrase is associated with seeking the protection of Kannon, the Bodhisattva of Compassion, from danger and misfortune. If you ever find yourself in danger, perhaps you might try saying, “Nenpi Kannonriki.”

Without knowing its origin, the writing could easily be mistaken for formal calligraphy or a work of art. Even as graffiti, it shows that the trainee monk thought carefully about the arrangement of the words.

Seikenji also preserves a norikoshi, a small palanquin said to have been used by Tokugawa Ieyasu during military campaigns.

The norikoshi is a compact, lightweight, single-person conveyance made from wooden boards. Ieyasu is believed to have used it to inspect battlefields, observe the formation of his troops and issue instructions.

Firearms were already in use at the time. A large ceremonial palanquin would have been easy to spot, difficult to move and an obvious target. The smaller and lighter norikoshi allowed its passenger to move more quickly.

Why, then, is a palanquin used by Ieyasu preserved at Seikenji?

The head priest of Seikenji at the time is said to have held a position high enough to speak with Ieyasu as an equal.

On one occasion, the priest travelled to Sunpu Castle to meet Ieyasu. Heavy rain began before the priest could return to the temple.

Seikenji is approximately fifteen kilometres from Sunpu Castle. Today, the journey takes around thirty minutes by car. At that time, it would have taken three or four hours on foot.

Ieyasu reportedly lent the priest the norikoshi and sent attendants with him on the journey back to Seikenji.

A borrowed object would normally have been returned, yet the norikoshi remains at the temple.

Was it later presented to Seikenji as an official gift from Ieyasu? Or was it borrowed and simply never returned? No one knows for certain.

A Bashō monument transformed into a bridge, garden stones in the forms of an ox, a tiger and a turtle, rare graffiti preserved for more than 150 years, and a palanquin that may never have been returned to Lord Ieyasu.

Seikenji preserves stories that are not only historically fascinating but also filled with a sense of human character. When visiting Shimizu, consider making a stop at Seikenji Temple in Okitsu.



【放送内容のテキスト文面】


さあ、今週も興津の清見寺をボランティアガイドの伏見さんと一緒にぶらっとしていきます。

現在、私たちは本堂の裏にあるお庭を眺めながら一休みしていたところです。

広いお庭にはいろいろなものがありますね。

気になるのが、芭蕉句碑と書かれている看板がありますが、そのようなものが見当たらないですよね。

句碑はどこかに持っていかれてしまったんですか。


これはですね、芭蕉の句碑ということなんですけど、石碑っていうのは立ってるものですね。

立ってるところに正面に文字を刻んでなんか分かるようにしてるんですけど、このお寺さんはあれ石橋にしちゃってあるんですよ。だから句碑と言ってもね、皆さん分からないですよね。


この隣にある石橋が芭蕉句碑なんですかただの橋かと思ってました。


実はこれはね、大変いろんな言い伝えっていうか、現実があったんですけども、元禄の初めっていうから、1680年代から1700年の初めぐらいですかね、この興津宿の、お金持ちの方がですね、すでに作られていた芭蕉の句を刻んだ石碑を興津の宿場に建てたそうなんですね。

句碑にはですね、「西東(にしひがし) 憐れさ同じ 秋の風」と刻んであったんだそうです。

これを宿場の町の建てた後ですね、ちょっと不況、不景気が襲ってきましてね、どうもこの句が原因だ?じゃないかっていう、なんか責任を押し付けますよね。

で、町の人たちがね、せっかく建てた石碑をね、海に捨てようとしていたところに、当時の住職が通りましてね、じゃあワシがもらってくよってことで持ってきて、句を刻んである方を下にして、石橋にしてあります。


不況をこの句のせいにするなんて完全に言いがかりですね。もともとは立派な石碑だったはずなのに、今の形だと句碑ということは絶対にわかりませんね。


ですから、あの句碑が立たない限り、「西東(にしひがし) 憐れさ同じ 秋の風」っていうのは分からないっていうことになってます。

で、住職さんがね、興津の町が賑やかくなって、もうそういうことが起きない時代になったら立てようかなって思ってもらってきたのかどうか分かりませんが、今はまだそのままですね。はい、そういう歴史があります。

あとこの先にね、、その、本当にそうかっていうかどうかわかりませんが、まあいろいろ学術調査なんかやる機会があったんでしょうかね。これを掘って、泥とかそういうものを全部こう綺麗にした写真がそこにありますのでね、見てください。


石碑をもらってきて橋にしてしまうという考えはちょっと面白いですね。この橋の向こう側にもう一つ看板がありますね。臥龍梅の臥に、牛に石ですか?「がぎゅうせき」と読むんですかね?これはどんな意味のある石なんでしょうか。


このお庭はですね、山本道斉(やまもとどうさい)という庭師が作ってくれたということになってますけど、家康公がこのお寺でも丹下雪斎(たんげ せっさい)というね、今川家の和尚さんに教育を受けたことになっています。秀忠公に将軍を渡して大御所で駿府へ戻ってきた後ですね、このお寺にも何回も来ているわけですけど、、その折ですね。このお庭を改修しようやってことになりましてね。このお庭に家康公が5種類の木と3つの動物の名前のついた名跡を駿府城から持ってきて配置してあるんです。ですからこのお庭の別名は五木三石(ごぼくさんせき)のお庭って名前が通ってます。


なるほど。この臥牛石(がぎゅうせき)はその三石のうちの一つということですね。


五木というのは松。今ちょっと。そんな正面ちょっと。1本木が、小さい木が見えるかと思いますけども、柏、梅、柿、蜜柑がどうやらあったらしいんですけど、今はあそこの柏が1本ね。それからこちらのね、三石っていうのは動物の名前がついてますので、牛、虎、亀っていうような名前がついた石がここに配置されてます。表示板がね、この臥牛石っていうのだけしかないもんですからね。和尚さん早く他でも建ててくださいよっていう要望があるんですけど、ちょっとまだ、建ってないんですよね。


牛、虎、亀、ですか。岩盤がなければ絶対わからないので、ぜひつけていただきたいですね。ところで、この臥牛石というのはどういう意味ですか。


臥牛石っていうのは伏せた石だから動物の姿に似てるから切って見えない部分あるんですけど、この臥牛石っていうのは多分あの石を掘ったら、寝そべってる牛の背骨がこういうように見える、そんなような石の形してるんだろうと思いますね。もう一つは、虎っていうのは睡虎石、眠った虎、亀っていうのは遊亀石、遊ぶ亀っていうような名前のついた石がね、配置されてますので、五木三石のお庭っていう別名を持ったお庭ですよっていうことになります。


臥牛石、睡虎石、遊亀石の3つの石がちゃんと意図を持って置かれているんですね。頑張って目を凝らしてみるとそう見えなくもないですが、牛が伏して、虎が眠り、亀が遊んでいるお庭と考えるとなんだか楽しいですね。では、休憩は終わりにして建物の中を進んでいきましょう。少し行くと「家康手習いの間」と書かれたお部屋がありますね。もしかしてここに家康公がいたんですか。


ここの家康公、手習いの間っていうのがあるんですけどね。実はこのお部屋っていうのはですね、家康公といってもまだ松平竹千代の時代です。8歳から19歳まで駿府、今川家にに人質という形でいたわけですけども。幼少期にはですね、このお寺でも今川家の住職の丹下雪斎という方が、このお寺の住職を兼務してましたのでね、ここでいろいろ教育を受けたわけですけど、このお部屋は、後からね、家康公を顕彰するために建てられたお部屋と聞いてますので、このお部屋では勉強してない。で、このお寺のどこかで勉強したことは確かですけど、このお部屋はね、なんかちょっと三畳一間というと、なんか本当に人質っていう感じに陥ってしまいますけどね。これはまあそういうことで、後から建てられたお部屋と、こう聞いております。


はい。あ、このお部屋にいたわけではないんですか、確かにこの部屋を見るとちょっと狭くて、本当に人質に取られているって感じがしちゃいますね。では、次へ進んでいきましょう。手習いの間のすぐ隣に、なんだかたくさん文字が書かれている場所がありますね。天井まで文字がびっしりですが、一体これは何ですか。


皆さん、この墨書きの字を見ますとね、、これは朝鮮通信使が琉球使節の方が書いたものかって質問を受けることがあるんですけど、実はこれはですね、観音経という経本、お経の本の文字なんですよ。これはですね、まあこれ住職さんに伺ったことがあるんですけど、幕末にはね、このお寺には修行僧という方がいたんだそうです。その中の一人がですね、その観音経を、いわゆる落書きにしたんだそうです、ここへ。こうしてね。で、落書きだから消そうかっていうことで話があったようですけど、せっかく書いて、なかなか立派なものだなということで残してあるということです。幕末から現在までおよそ150年です、概算でね。ですから150年以上経っている観音経というね、お経の経文です。


これただの落書きなんですか、なんとなくちゃんとした文字で書かれているので、偉い人がいつでも見られるように壁に書いた貴重なものかと思っちゃいました。まあ、150年の歴史がある落書きと考えると、貴重な落書きですね。


大事なところは、念彼観音できっちゃう。念彼観音できずーっとこう、同じところに念彼観音力がちょうど来るように配置して書いてあって、なかなか作為的にやったんだろうと思うんですけどね。念彼観音力、観音様にお願いをすると、その人のね、危険なこととかなんとかを救ってくれるおまじないの言葉だそうでございます。何かあったら「念彼観音力」って叫んでみてください。


ただの落書きでもちゃんと書き方にこだわりがあったんですね。一つのアート作品みたいに見えてきました。言われなければ、これが落書きだとは思わないので、面白いポイントですね。では、その先に進んでみましょう。写真が飾られていますが、これは何でしょうか。


これがその芭蕉の句碑のひっくり返して綺麗にして写真撮ったのがこれなんです。「西東(にしひがし) 憐れさ同じ 秋の風」と刻んであるんです。それがさっき言ったようなことで、伏せてですね、あそこに石橋になっていますよ。これまだあそこで伏せて置いたんでしょうね。興津の町が繁盛したら建ってますよって言ったかどうかわかりませんけどね。今ちょっとまだ繁盛しない。寒ざくら祭りっていうのはありますけど、1万人ぐらいじゃまだ建たないっていうことでしょうかね。


先ほどお話があった伏せられている芭蕉句碑の表の写真ですが、綺麗にすれば、ちゃんと石碑として飾れそうですね。橋ではなく、石碑として建てられるように、興津の町へもっともっと人を呼んでこないとですね。さあ、上の方に目を向けてみると、板張りに小型のお神輿みたいなものが飾ってあります。「乗輿(のりこし)」と読むんでしょうか。


えっと、これはですね、家康公がですね、まあ当然江戸時代の話ですね。自分の戦の時にですね、現場を視察するために乗った一人乗りの乗輿(のりこし)、そういったものらしいんです。だから陣形を見て、もっとこっちへ寄れとかなんとか、そういうようなことを指示したんだろうと思うんですね。その時代はもう鉄砲ありますからね。板張り、小型軽量、迅速に動けるように。今でいう御駕籠(おかご)みたいのだとね、すぐ発見されちゃって、身動きにできなくて、狙い標的になっちゃうので、小型軽量一人乗りで、というようなものらしいんだよ。


戦の際に家康公が実際に使われていたものなんですね。確かにちょっと窮屈そうですが、この大きさなら戦中でも機敏に動けそうです。


で、これがなぜここにあるかっていうと、その時代、このお寺の住職さんは家康さんと対等にお話ができるような偉い住職さん。駿府城へ行ってお話をしようということで出かけたんですが、帰りの時大雨になっちゃったんだそうです。今の時代だったらタクシーで来れば30分で来ちゃうんだけど、その時代は歩きしかないので、だいたい15キロぐらいあるから3時間か4時間かかるんですね。で、困ったなということで、そしたら家康公がね、これ乗ってね、帰りなさいということでお付きをつけてね、返してくれたんだそうです。

本来なら返さなきゃなんないんですよね。ここにあるってことはもらっちゃったのかしら。ちょっとわかりませんけどね。きっと家康公から頂いたよなんてことで、ちょっと箔をつけたいから、このまま置いたのかな。これは家康公が乗ってそういったことをすると。


今も家康公に借りたままここにあるということですね。家康公からもらったとなれば自慢できますけど、でもいつかは返さないとですね。

はい、ありがとうございました!

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